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11.松下屋敷

 掛川でもうまく行かなかった。

 戦の経験もなく、知り合いもいないのでは誰も相手にしてくれなかった。藤吉郎と五助は仕方なく、さらに西へと向かった。

 目指すは引馬(ヒクマ、浜松市)の城下だった。引馬の城主、飯尾豊前守(イイオブゼンノカミ)は名将との評判が高く、去年の三河攻めの時の活躍は藤吉郎も噂に聞いている。仕官口がある事を願って二人は天竜川を越えた。

「引馬でも見つかんなかったら、三河に行くのか」と五助が聞いた。

 五助は掛川城下で手に入れた瓢箪(ヒョウタン)を長い太刀に縛り付け、それをかついでいた。

「三河か‥‥‥できれば、三河には行きたくねえ」と藤吉郎は答えた。

 藤吉郎も瓢箪を腰にぶら下げている。お互いに自分の瓢箪の方が形がいいと自慢しているが、どちらもひねくれた形をしていた。

「有名な武将はいねえからな。引馬が駄目だったら、いっその事、戻って関東まで行くか」

「いや、関東には行かん。絶対に今川家に仕えるんだ」

「ふん。親父が今川家の家臣だったからって、そんな事にこだわる事はねえじゃねえか。どこに仕えたって親父より偉くなりゃいんだろ」

「いや、今川家じゃなきゃ駄目なんだ」

「頑固な野郎だ。引馬が駄目なら俺は小田原に行くぜ」

「勝手にしろ」

 二人の顔を木枯らしが吹き付けた。

「なあ、早えとこ見つけねえと年が明けちまうぜ。宿無しのまま年を越したくはねえな」

「ああ」と藤吉郎も同意する。「今年中には何とかしなくちゃな」

「おい、向こうから来るのは引馬の侍じゃねえのか」と五助が顎で示した。

 二人の前方に、砂埃(スナボコリ)の中、供を連れて馬に乗った侍がこっちに向かって来るのが見えた。
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12.帰郷

 藤吉郎は五助とおナツを連れて故郷の中村に向かった。

 旅の最中、五助とおナツは絶えずいちゃつき、場所もわきまえず、暇さえあれば抱き合っていた。おナツはいつも猫のようにキャーキャー騒いでうるさく、暑いと言っては、すぐに裸になった。おナツの裸を見ると五助は発情し、人前もはばからずに獣のように交尾を始めた。藤吉郎は腹を立て、二人と何度も喧嘩したが、二人は一向に気にせず、陽気に流行り歌を歌いながら後について来た。

 家が近づくにつれて藤吉郎の足取りは重くなった。筑阿弥に何て言い訳をしたらいいのかわからなかった。五助とおナツは、そんな藤吉郎の気持ちなど知らず、相変わらず、いちゃいちゃとふざけあっていた。

「ここで待っててくれ」と藤吉郎は村の入り口の祠(ホコラ)の前で二人に言った。

「何だ、うちまで連れてってくんねえのか」

「おめえらを泊める程、俺んちはでっかくねえんだ。その辺で、いつものようにやってろ」

「そうか、その祠の中で一発やるか」と五助はおナツを後ろから抱き締めた。

「やーねえ」と言いながらも、おナツは嬉しそうに甘えている。

 藤吉郎はふと、おきた観音を思い出した。元気でいるかな、また、どこかから現れるだろうと、二人を置いて家に向かった。

 家には誰もいなかった。どうやら、お父の病も治ったようだなと畑の方に向かった。

 男の格好をした姉がいた。弟の小一郎も妹のあさも驚く程、大きくなっていた。二人の姿を見て、三年の月日が長かった事を改めて思い知った。
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13.初心

 生駒屋敷は懐かしかった。

 馬場では諸肌脱ぎの男たちが馬を乗り回し、浪人長屋には浪人たちがゴロゴロしている。

 仁王のような門番は藤吉郎を歓迎し、二の曲輪(クルワ)では兵法(ヒョウホウ)指南役の富樫惣兵衛が武芸を教えている。何もかもが三年前と変わっていなかった。

 出迎えてくれた萩乃は変わっていた。十六歳になり綺麗な娘になっていた。吉乃(キツノ)も三年前より綺麗になっているに違いない。早く、吉乃に会いたかった。

 藤吉郎が吉乃の事を聞こうとすると、萩乃はニヤニヤしながら、「残念でした。お姉さんはいないわよ」と言った。「今年の春、美濃の国にお嫁に行ってしまったわ」

 藤吉郎の目の前は真っ暗になった。急に気が遠くなるような気分だった。ある程度、覚悟はしていても再会できると信じていた。

「お帰りなさい」と吉乃が笑顔で迎えてくれる事をいつも夢に見ていた。

 お父は死んじまったし、吉乃は嫁に行っちまった。こんな事なら尾張に帰って来るんじゃなかったと後悔した。

「それで、相手は誰なんだ」と藤吉郎は平静を装って萩乃に聞いた。

「土田(ドタ)城の七郎左衛門様の次男で弥兵次様っていうのよ」と萩乃はいたずらっぽい目付きで答えた。

「どんな男なんだ」

「背が高くて、強くて、かぶき者で、カッコよくて優しい男よ」

「そうか‥‥‥かぶき者か‥‥‥」

 萩乃は首を振った。「ほんとはどんな人だか知らないのよ。噂では強いって聞いてるけど、どんな顔なのか、どんな格好してるのか、全然知らないわ」

「見てないのか」

 萩乃はうなづいた。「あたし、言ったのよ。会った事もない男の所にお嫁になんか行くなって。でも、お姉さん、父上には逆らえないって行っちゃったのよ」

「そんな‥‥‥」

「でもね、安心して、あなただけじゃないわ、お姉さんに振られたの。前野村の小太郎様も振られたのよ。あの色男、お姉さんがお嫁に行ってから十日間も寝込んだらしいわ」

「小太郎様が?」

「そう。もう、お姉さんの事は諦めて、お松と一緒になったけど」

「お松っていうと惣兵衛殿の?」

「そう、娘さんよ。お松は前から小太郎様の事、好きだったから夢がかなったのよ。今は仲良くやってるみたい」

「そうなのか‥‥‥」

 小太郎は蜂須賀小六の弟分だった。吉乃より十歳くらい年上のはずだった。藤吉郎がここにいた頃、小太郎が吉乃に言い寄っているという事はなかった。藤吉郎がいなくなってから、吉乃の美しさに惹かれたのだろうか。でも、そんな事はもうどうでもよかった。すでに、吉乃は知らない男のもとに嫁いでしまい、もう二度と会う事はないのだった。

「どうやら、あなたも寝込みそうね」と萩乃は意地悪そうに笑った。
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14.花の都

 琴の調べに混ざって流行り唄がどこからか聞こえて来る。

「さあ、若旦那様」と目のクリッとした娘が頬を赤らめて、しどけない姿で酒を注ごうとした。紅色の着物の裾ははだけ、白い足が太ももまで丸出しだった。

 若旦那と呼ばれたのは真っ赤な顔をした藤吉郎。派手で、しかも上等の着物を着てニコニコしている。豪華な料理の載ったお膳をいくつも並べ、左右に綺麗所をはべらしていた。

「若旦那様、駄目ですよお」と左側の色白で切れ長の目をした娘が藤吉郎を睨んで膝をたたいた。藤吉郎は慌てて娘の胸元に差し入れていた手を抜き取り、お道化(ドケ)て見せると酒盃(サカズキ)をつかんで一息に飲み干した。

「ホイ、最高だのう」

「まあ、憎らしい。すみれちゃんばかりかまって。さくら、寂しいわ」と右側の目のクリッとした娘が酒を注ぎながら藤吉郎にもたれかかって来た。

「いやいや、そんな事はない。さくらも可愛い女子じゃ」藤吉郎は酒盃を左手に持ち替えると右手でさくらを抱き寄せ、ニタニタしながら太ももを撫で始めた。

 大きな火鉢を挟んで向こう側には、同じく上等の着物を着て遊女をはべらしている五右衛門がいた。大男の五右衛門は一人の娘を軽々と膝の上に乗せ、もう一人の娘を左手で抱き締めて豪快に笑っている。二人の娘はすでに裸同然の格好で弄ばれていたが、二人ともキャーキャー言いながら喜んでいた。

「あちらさん、相変わらず、大胆ね」とすみれが言った。

「ヤレ、負けてはおれんな」と藤吉郎はすみれを押し倒すと帯を解き始めた。

 二人が京都に来てから半年近くが経っていた。

 京都の町は想像していた以上にきらびやかだった。所狭しと家々が建ち並び、どこに行っても人だらけだった。大通りには様々な物を売っている店がずらりと並び、いつでも欲しい物を手に入れる事ができた。尾張ではなかなか手に入らない一流品も京都では簡単に手に入る。さすが、都だと藤吉郎は感心していた。

 大きな寺院もやたらに多かった。贅沢な僧衣を身につけ、偉そうな面をした坊主がやけに目に付いた。当然、烏帽子(エボシ)をかぶったお公家さんも多かったが、贅沢ななりをした侍たちに比べると、何となく、みすぼらしい感じがする。公家屋敷よりも武家屋敷の方が立派に見え、京都にいるお公家さんより駿府にいたお公家さんの方がいい暮らしをしているように感じられた。

 賑やかな盛り場はあちこちにあった。着飾った女たちは昼夜構わず、手招きしている。五右衛門の言った通り、銭さえあれば確かに面白い所だった。
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15.桔梗の花

 尾張に帰って来た藤吉郎はまず、蜂須賀小六の屋敷に向かった。

 清須の城下に行って上総介の家来になろうと決めてはいたが、小六の意見を聞いてみようと思った。それに、自分を安く売りたくはない。鉄砲好きな上総介の家来になるには、小六から鉄砲を習ってからの方がいいかもしれないとも思った。

 四年振りだった。屋敷は以前と変わっていなかった。ここは藤吉郎が初めて侍奉公した所だった。あの時、小六から鉄砲を習おうとして必死になって働いた。しかし、仇である備後守の突然の死によって、結局は鉄砲を習う事はできなかった。今、また、こうして鉄砲を習うためにやって来た。今度こそは絶対に習わなければならないと強く心に決め、門へと向かった。

 生駒屋敷からの使いだと言うと門番は入れてくれたが、藤吉郎の顔を見ながら首を傾げ、「おめえ、猿じゃねえのか」と聞いて来た。

 藤吉郎は、「はい」とうなづき、「もしかして彦八殿ですか」と聞いてみた。

 門番はうなづいて笑った。「やはり、猿か。おめえ、今までどこに行ってたんじゃ」

「はい、あちこちに」

「その格好からすると、昔とあまり変わってねえようだな」

「はい。あの小六殿はいますか」

「お頭か、いると思うがの。多分、裏の馬場の方じゃ」

「そうですか、どうも‥‥‥」と藤吉郎が頭を下げて母屋の方に行こうとすると、彦八が後ろから声を掛けて来た。

「おしまの奴だがな、わしの嫁になって、今はもう二人のガキがいるわ」

 藤吉郎は振り返ると、「おめでとうございます」と笑った。

「おう。後で、ガキでも見に来う」

 藤吉郎はうなづいたが、今更、おしまに会おうとは思わなかった。

 屋敷の外観は変わっていなかったのに中に入ると随分と変わっていた。母屋の南側に新しく建てた長屋が並んでいる。以前より多くの者が屋敷内に住んでいるようだった。

 母屋に小六はいなかった。大きなおなかをした女が顔を出した。小六の妻だという。四年前はいなかったが、その後、小六も嫁を貰ったらしい。なかなか綺麗な人だった。
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16.川並衆

 蜂須賀党の仲間に入った藤吉郎は彼らと一緒に馬にまたがり各地を駈け回っていた。

 鉄砲をかついで飛び回ってはいても、別に戦をしていたわけではない。生駒家を初めとして商人たちの荷物の輸送を護衛するのが任務だった。戦に敗れた落ち武者たちが徒党(トトウ)を組んで野武士と化し、商人たちを襲撃するのが日常茶飯事のごとくに行なわれていた。尾張国内を通過するには蜂須賀小六に頼めば安心と小六は商人たちから信頼され、護衛の仕事は次から次へと舞い込んで来た。小六は配下の者たちを各地に飛ばして、商人より護衛料を稼いでいた。

 藤吉郎も三輪弥助らと共に何度も護衛に加わったが、誰かが襲って来るという事はほとんどなかった。それもそのはずで尾張国内の野武士で小六に逆らう者はすでにいない。小六に護衛を頼まない場合、小六が命じて配下の者に襲撃させるのだった。

 藤吉郎は小六の仲間に入って、改めて、小六という男の力を思い知った。尾張の国には山らしい山はあまりなく、野武士たちが隠れているのは木曽川周辺だった。

 木曽川はいくつもの支流を作って流れ、美濃との国境を成していた。川の流れは不安定で洪水の度に流れを変えた。川の中にはいくつもの中洲があり、それらは尾張にも美濃にも属さず、法の及ばない無法地帯と言えた。そんな中洲を拠点にして川並(カワナミ)衆と呼ばれる野武士たちがいた。船を巧みに操り、木曽川を上り下りする船から通行税を取り、逆らう者は襲撃するという海賊まがいの荒くれ者たちだった。彼らは水上を自由に行き来するだけでなく、あちこちに点在する中洲では馬の飼育をし、馬を扱うのも得意で傭兵(ヨウヘイ)として戦にも参加していた。さらに、鉄砲という武器を早くから取り入れ、鉄砲の名人も多かった。それら川並衆の親玉が蜂須賀小六だった。

 元々、彼らは木曽川の各地に分散し、それぞれの頭に率いられて独自の活動をしていた。松倉の坪内又五郎、日比野の日比野六太夫、鹿子島の立木伝助、柏森の兼松惣左衛門、柳津(ヤナイヅ)の板倉四郎右衛門、小熊の小木曽平八、大浦の村瀬兵衛門(ヒョウエモン)、桑原の武藤九十郎、長島の三輪五郎左衛門らが主立った頭だった。一癖も二癖もある彼らを一つにまとめるのは容易な事ではない。小六はそれを鉄砲という新しい武器を使ってまとめる事に成功した。

 鉄砲がまだ珍しかった頃、小六は鉄砲の威力を見せつけ、彼らを驚かせて支配下に組み入れて行った。小六の本拠地であった蜂須賀郷は津島に近く、小六の姉が津島の有力商人である堀田孫右衛門に嫁いだ関係から、小六は早いうちに鉄砲を手に入れる事ができた。

 小六は鉄砲を生駒八右衛門に紹介し、興味を示した八右衛門はその財力によって、さっそく堺より鉄砲を手に入れ、清須より藤吉郎の伯父、孫次郎を呼び寄せ製作に当たらせた。しかし、鉄砲を作るのは難しく、藤吉郎が生駒屋敷にいた頃、孫次郎は堺に修行に行った。鉄砲製作の技術を身に付けて帰って来た孫次郎はようやく鉄砲を完成させ、今では親方として十人の弟子を使って、毎月、五挺の鉄砲を作っている。それらの鉄砲は小六より川並衆に配られていた。鉄砲には火薬が付き物だが、国内では生産する事ができず、手に入れる事は難しかった。その火薬を扱っているのが津島の堀田孫右衛門であるため、小六を通さなければ手に入らない。小六は火薬を自由に扱う事によっても川並衆を支配していた。
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17.出陣

 美濃の合戦が始まろうとしていた。

 小六のもとには道三からも、子の新九郎からも出陣の要請が来ていた。小六の屋敷では主立った者たちが集まって、連日、軍議が行なわれていたが、どっちに付いたらいいのか結論は出なかった。

 道三は、上総介が新九郎の後方から攻めて挟み打ちにすれば絶対に勝てるから、上総介が無事に木曽川を渡れるように援護してくれと言う。新九郎は、上総介が川を渡れないように邪魔してくれと言う。

 確かに今回の戦は上総介の参戦によって状況は変わってしまう。小六が探った所によると美濃国内の状況は新九郎の兵力が一万五千余り、道三の兵力は三千足らずだった。圧倒的に新九郎の方が有利とはいえ、新九郎に付いている者たちの中には戦況次第では寝返る者もかなり多い。上総介が道三の味方をして、川並衆も味方をすれば勝てない事もない。しかし、上総介を美濃に入らせなければ、新九郎の勝利は確実だった。

 前野小太郎を初めとして頭連中の多くは、兵力を比較して、仕事の内容も比較して新九郎に付くべきだと主張した。上総介と共に美濃に進撃するよりも、上総介が木曽川を渡らないように妨害する方がずっと簡単な仕事だった。それに反対していたのは長老の坪内又五郎を初めとして古くから道三方として戦って来た者たちだった。

「わしらは今まで、ずっと道三殿と共に戦って来た。たとえ、道三殿の方が不利とはいえ、今更、道三殿を裏切るわけにはいかん」

 又五郎の気持ちは皆にもよくわかっていた。道三を裏切りたくないというのは皆、共通した思いだった。しかし、情に流されていたら傭兵稼業はできない。勝てる方に付かなければ稼ぎにならないだけでなく、全滅する事も考えられた。

 道三が勝つには敵将を寝返らせなくてはならない。道三の事だから裏工作は充分にやっているとは思うが、戦を有利に展開しない限り難しい。敵が稲葉山城を中心に守りの態勢に入ってしまえば、少数の道三に勝ち目はなかった。敵を城からおびき出して奇襲を掛けるしかない。上総介が奇襲攻撃を掛ければ勝てない事もないが、失敗すれば全滅する事は確かだった。どう考えて見ても、今回の戦は道三方に不利だった。

 川並衆の頭として仲間を危険な目に合わせるわけにはいかなかった。小六は皆の意見を聞いた後、川並衆が生き残るためには新九郎に付く方が妥当だと判断して、ようやく結論を下した。長老の又五郎も仕方がないとうなづいてくれた。

 藤吉郎は部屋の隅で軍議を聞いていた。藤吉郎なりに皆の意見を分析して、小六の結論は正しいと思った。
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18.再会

 うっとおしい梅雨の季節になった。

 美濃の合戦の後、生駒八右衛門を通して、蜂須賀小六に上総介の家臣にならないかとの声が掛かった。しかし、小六は、「まだまだ、縛られたくはねえからの」と言って、いい返事はしなかった。

 小六はうなづかなかったが、弟分の前野小太郎が上総介に仕える事に決まり、清須の城下に移って行った。

 前野家は代々、岩倉の織田伊勢守に仕え、父の小次郎も伊勢守の重臣の一人だった。ところが、伊勢守家で親子の争いが始まり、子の左兵衛(サヒョウエ)が政権を奪うと父親派だった小次郎はさっさと隠退してしまった。小太郎の兄、孫九郎は母親の実家である小坂家を継ぎ、上総介の家臣として春日井の代官になっており、小太郎が前野家の跡を継がなければならなかった。一家の当主になって、いつまでも野武士でいるわけにもいかず、上総介に仕える事になった。

 美濃の負け戦の後、上総介は忙しかった。

 五月の末、上総介の重臣である林佐渡守が弟の美作守(ミマサカノカミ)と那古野城内で、上総介の暗殺をたくらんだ。結果は失敗に終わったが、その事件を引き金として弟の勘十郎は上総介の直轄領を横領し、上総介に叛旗(ハンキ)をひるがえした。林兄弟を初め、柴田権六(ゴンロク、勝家)、平手五郎右衛門、丹羽(ニワ)勘助(氏勝)らが勘十郎の味方をして清須城を窺っていた。

 上総介は見て見ぬ振りをして、再び、城下の再建に力を入れ、七月の盂蘭盆会(ウラボンエ)には盛大な盆踊りを催した。華やかな山車(ダシ)を作らせ、家臣たちに派手な仮装をさせ、自らは天女に扮して清須から津島まで練り歩いた。近在の民衆も喜んで参加し、噂を聞いて、遠くからも見物人が続々と集まって来た。戦に明け暮れる毎日で、すさんでいた人々の心は解放され、いやな事など皆忘れて盆踊りに熱中した。

 敵に囲まれ、窮地に陥っている今、上総介自身がすべてを忘れて踊り狂いたい心境だったのは確かだが、ただ、それだけではなかった。この馬鹿騒ぎを思いついたのは津島の商人たちを味方につけるのが本当の目的だった。

 以前、父親が勝幡(ショバタ)城にいた頃、津島とのつながりは親密だったが、父親が亡くなり、本拠地が清須に移ってからは疎遠になっていた。尾張を平定するには財力のある商人と手を結ばなくては不可能だ、と判断した上総介は津島の商人と手を結ぶために、派手な張行を思い立ったのだった。それは上総介自身が考え出した、上総介独自の奇抜なやり方だった。

 上総介の思惑はうまく行き、津島の商人の心をつかむ事に成功した。そればかりでなく、上総介の名は身近な領主として、民衆たちに親しみを込めて覚えられた。

 藤吉郎も三輪弥助と一緒に見物に出掛け、盆踊りに参加して踊りまくった。前野小太郎も森三左衛門も派手な仮装をして楽しそうに踊っていた。

「小太郎殿、清須は楽しいですか」と藤吉郎が聞くと、

「まあまあじゃ。悪くはねえ」と笑った。

「お前も清須に来いよ」と三左衛門が言った。

「はい、考えておきます」と藤吉郎は答えた。
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19.上総介

 生駒屋敷に帰った吉乃は夫の事を心配する事もなく、久し振りに会った妹、萩乃と菊乃と楽しそうに話し込んでいた。実家に帰れた事が余程、嬉しかったようだった。

 ところが、次の日の昼近く、土田(ドタ)甚助が森甚之丞と一緒に戻って来ると急に沈み込み、屋敷に籠もったまま出ては来なかった。夫の土田弥平次が戦死してしまったのだった。

 甚助と甚之丞は女たちを逃がした後、すぐに明智氏の長山(オサヤマ)城に向かったが、すでに遅く、敵の総攻撃に遭って城は燃えていた。弥平次と勘解由(カゲユ)の安否もわからず、敵兵に囲まれた城に近づく事はできなかった。そうこうしているうちに城は焼け落ち、二人が諦めて引き返そうとした時、長山城から逃げて来た弥平次の家臣、又七郎と出会った。傷だらけの又七郎は甚助の顔を見て、ほっとして弥平次の最期を語った。

 死を覚悟した弥平次は城主、明智兵庫頭(ヒョウゴノカミ)に従い、敵の大軍に突っ込んで行き壮絶な討ち死にをした。又七郎も弥平次と共に死ぬ覚悟でいたが、弥平次から吉乃を無事に逃がすように頼まれて逃げて来たという。甚之丞の兄、勘解由の事を聞くと、本来なら吉乃を逃がすのは勘解由の任務だったが、勘解由はそれ以前に戦死してしまい、自分が選ばれたのだと言った。

 甚助と甚之丞は弥平次と勘解由の戦死を知り、気落ちしながらも又七郎と共に敵兵の中をかいくぐって、やっとの思いで生駒屋敷まで逃げて来た。なお、長山城には明智十兵衛光秀もいて、叔父の兵庫頭の命令で脱出し、越前方面に向かっていた。後に藤吉郎と共に上総介の武将として働く事になるのだが、この頃はまだ、お互いに相手の存在すら知らなかった。

 長山城と共に土田城も落城し、甚助の父、七郎左衛門も戦死した。吉乃と一緒に生駒屋敷に来ていた五十人の女子供は帰るべき家を失い、身内を頼って、それぞれ帰って行ったが、半数近くは行く所もなく残っていた。八右衛門が本人の希望を入れて、ここにいたい者には仕事を与え、他所に行きたい者にはできるだけ世話をしてやっていた。

 土田甚助は浪人となってしまった。それでも、いつの日か、土田家を再興する事を夢見て、妻と二人の子供と一緒に生駒屋敷の長屋に残った。
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20.夢に向かって

 上総介が帰った後、八右衛門は藤吉郎から上総介と吉乃の様子を聞くと、

「そうか、そうか」と満足そうにうなづいて、吉乃のために新しい屋敷を建てると言い出した。口に出しては言わないが、上総介を迎えるための屋敷に違いなかった。八右衛門が上総介と吉乃を結び付けようとしているのは見え見えだった。

 藤吉郎は吉乃が二度と上総介に会わないように願いながらも、そんな事はおくびにも出さないで八右衛門の考えに同意した。

「立派なお屋敷を建てましょう。吉乃様に相応しい華麗なのを。わたしは昔、大工の奉公もしましたから、お手伝いできると思います」

「なに、猿は大工の経験もあるのか。そいつは頼もしいの」

 吉乃の新居は今、住んでいる屋敷の東、庭園内の池の北側に建てる事に決まり、各地から集まって来た大勢の大工によって建築に取り掛かった。藤吉郎は普請(フシン)奉行となり、八右衛門と相談しながら采配(サイハイ)をふるった。

 吉乃はまだ部屋に籠もりがちだったが、時々、妹の萩乃、菊乃と一緒に近くまで散歩するようになった。そんな時は藤吉郎は娘たちを守るため鉄砲をかついで従った。

 あれから一月経ったが上総介は来なかった。吉乃も上総介の事を話題にする事はなく、藤吉郎はいくらか、ほっとしていた。

 以前、水浴びをした河原に来ると吉乃は、「変わらないわね」と川の流れを眺めた。

「昔のように裸になって水浴びしようか」と萩乃が笑いながら言った。

「いやよ。そんな、恥ずかしいわ」と菊乃が真顔で首を振った。

「冗談よ。この寒い中、水浴びなんかできるわけないでしょ」

「そうよね、びっくりした。萩姉(ハギネエ)は突飛な事ばかりするから、本気かと思ったわ」

「もう、ずっと昔のような気がするわ」と吉乃はしみじみと言って笑った。「楽しかったわね」

「猿がいなくなってから、もっと上流の方で、いい所を見つけたのよ」と萩乃が言った。「もっと深くてね、水の流れが遅いの。あたしたち、お魚のように水の中を潜って遊んでたのよ」

「裸になって?」

「勿論よ。気持ちよかったわ。猿にも見せてあげたかったわ」

「来年の夏を楽しみにしてます」

「来年の夏?」と吉乃は不思議そうな顔をして藤吉郎を見た。

「来年の夏まで藤吉郎はいてくれるの」

「猿はずっといるわよ、ねえ」

 藤吉郎はうなづいた。
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