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5.父親

 故郷に帰って来たのは六年振りだった。寺を追い出され、陰ながら母と姉を見てからも三年余りが経っていた。

 やはり、故郷は懐かしかった。藤吉は流行り唄を歌いながら、大手を振って我が家へと帰って行った。

 寒いとはいえ、天気がいいから、みんな、畑の方にいるのだろうと思ったが、うちの中から誰かの咳き込む声が聞こえて来た。

 うまい具合に筑阿弥が一人でうちにいた。日当たりのいい縁側で、綿入れを着て、のんきそうに茶碗を眺めている。

 筑阿弥にしては珍しい事だった。仕事の事しか頭にない、くそ真面目な筑阿弥がぼうっとしている。今まで、あんな姿を見た事がなかった。おかしいなと思いながらも、「ただいま」と声を掛けると、筑阿弥は顔を上げた。

 一瞬、驚いたようだったが、すぐにまた、茶碗に目を落とした。何となく顔色が悪く、やつれたように感じられた。

「お父、病気なのか」と藤吉は思わず聞いた。

 筑阿弥は首を振り、「何でもないわ」と言ったが、急に苦しそうに咳き込んだ。

「大丈夫かい」と藤吉は側に駈け寄った。

 筑阿弥は大丈夫じゃと言うように手を上げたが、いつまでも咳き込んでいた。ようやく、発作が治まると、「大丈夫じゃ。ちょっと疲れが出ただけじゃ。横になってりゃ治るんじゃがの、昼間っから寝るのはどうも性に合わん」といつもの口調で言った。

「寝てなきゃ駄目だよ」

「さっきまで寝てたんじゃ」と言うと眺めていた茶碗を大事そうにボロ布で包んだ。

「こいつはの、わしの宝物じゃ。わしの唯一の財産じゃ」

 筑阿弥は寂しそうな目をして、丁寧に何枚もの布で茶碗を包んでいた。

 いつもの筑阿弥と違うようだった。顔を見せた途端に怒鳴られると思っていたのに、以外にも筑阿弥は静かだった。静か過ぎるような気がした。

「どうしたんじゃ。津島の喜左衛門殿から、岩倉に行ったと知らせてくれたが、もう、帰って来たのか」

 筑阿弥は茶碗を木箱にしまうと改めて、藤吉の姿を眺め、「お前、侍になるつもりか」と聞いた。

 藤吉の姿は又右衛門の所にいた時のままだった。ナナが縫ってくれた袷(アワセ)に袴(ハカマ)を着け、腰には脇差まで差していた。

 藤吉は強くうなづいた。

「烏森(カスモリ)のナナさんの所にお世話になってました」

「又右衛門殿の所にいたのか」

「はい‥‥‥その又右衛門さんから信じられない事を聞いたので帰って来ました」

「信じられない事?」筑阿弥は眉(マユ)を寄せて、藤吉の顔を見つめた。その顔は父親以外の何者でもなかった。

「お父は、本当のお父じゃないと聞きました」と藤吉は小声で言った。

 筑阿弥は藤吉を見つめたまま固まってしまった。しばらくして、「そうか‥‥‥聞いたのか‥‥‥」と小声でつぶやいた。「いつかはわかる事じゃ」

「それじゃあ、本当なんですか」

 筑阿弥はうなづいた。「お前の本当の父親は、お前が二歳の時に戦死したんじゃ」

「お侍だったんですね」

「そうじゃ」

「本当の事を話して下さい」

「うむ」と言って、筑阿弥は茶碗の入った木箱を片付けると囲炉裏端に藤吉を誘った。

「お前が十五になったら話すつもりじゃった‥‥‥そうか、もうすぐ十五じゃな」

 筑阿弥はかすかに笑った。「早いもんじゃ。もう十五になるのか‥‥‥いいじゃろう、本当の事を話してやろう。だがな、おっ母には内緒にしておけ。昔の不幸を思い出させたくはねえからの」

「いいな」と言うように、筑阿弥はうなづいてみせた。

 藤吉もうなづいた。

「お前の父親はな、木下弥右衛門という侍じゃった。当時、この辺り一帯は木下家の領地だったんじゃよ。烏森の杉原家に負けねえぐれえの立派なお屋敷に住んでいたんじゃ。木下家は那古野(ナゴヤ)城におられた今川殿の古くからの家臣でな、お前が生まれた頃、小田井川(庄内川)以東は那古野を中心に今川殿の領地じゃった。当時、津島の近くの勝幡(ショバタ)にいた備後守(ビンゴノカミ)は、清須の大和守、岩倉の伊勢守に対抗するためには今川殿を利用するしかねえと考えたんじゃ。あれは忘れもしねえ。わしが備後守に仕えて間もねえ時じゃった‥‥‥」

 筑阿弥はまた咳き込んだ。藤吉は筑阿弥の背中をさすった。

「すまん、大丈夫じゃ‥‥‥備後守はの、京都のお公家さんたちを勝幡城に招待して豪勢に持て成したんじゃ。その時、わしはお公家さんたちを那古野へ御案内しろと命じられた。わしはお公家さんたちを連れて、今川殿のおられる那古野城に行った。城内の広間で初めて今川殿と会ったが、まだ、十二、三の子供じゃった。しかし、将軍家の一族だけあって、どことなく気品のあるお顔立ちじゃった‥‥‥それからのわしは備後守の使いとして何度も今川殿のもとへ通った。備後守は今川殿の機嫌を取るために様々な贈り物をしたが、皆、わしが取り次いでやったんじゃ。今川家の重臣の一人に木下彦右衛門という侍がいた。お前の爺様じゃ。わしは同じ一族として備後守に利用されたんじゃよ」

「えっ、お父も木下一族なんですか」

「お前の父親とは従兄弟(イトコ)だったんじゃよ。あの頃のわしは備後守の代理じゃと得意になっていた。馬鹿じゃった。迂闊じゃった‥‥‥まあ、最後まで聞いてくれ。備後守はお前の爺様に今川殿を尾張の守護職(シュゴシキ)に就けようと持ちかけたんじゃ。清須の武衛(ブエイ)様を倒して、実力を以て尾張の国を平定しようと持ちかけたんじゃ。爺様は備後守と組めば、それも夢じゃねえと考え、備後守と手を結んだ。話が決まると備後守は今川殿の守護代と称して、熱田の近くの古渡に城を築き、さっそく移って来た。勿論、わしも古渡に移り、備後守の使いとして何度も那古野城に行った。備後守は今川殿の機嫌を取る一方では熱田の商人を味方に引き入れたり、今川家の家臣たちを引き抜いたりしていたんじゃ。

 古渡に移って翌年の末、三河の松平次郎三郎(徳川家康の祖父)が守山まで攻めて来た。ところが、次郎三郎は守山で家臣に殺されてしまったんじゃ。備後守はすぐに、大将を失った三河勢を追いかけた。勿論、今川家の家臣たちも備後守に従い、松平氏の本拠地、岡崎まで攻めたが、三河勢はしぶとく、岡崎城を落とす事はできなかった。その戦で、木下家の当主だったお前の爺様は戦死してしまった。跡継ぎの太郎右衛門も戦死してしまったんじゃ。太郎右衛門はお前の親父の兄上じゃ。備後守の策略に乗せられて、今川家の家臣の多くが、その合戦で戦死してしまったんじゃよ。それから二年間、備後守はじわじわと今川殿の首を絞めるように、徐々に勢力を広げて行った。わしは相変わらず、今川殿の機嫌を取るため那古野と古渡を行ったり来たりしていた。備後守のたくらみに全然、気づかなかったんじゃ。備後守が兵力を蓄えている事は知っていたが、それは清須を攻めるものだと信じていた。

 天文七年の春、桜が満開に咲き誇る頃、那古野城内で連歌会が盛大に催された。勿論、わしも客たちに茶の湯の接待をするために、その場にいたんじゃ‥‥‥あの時の恐ろしさは今でも忘れられん。突然、連歌会の行なわれている広間が騒がしくなり、何事かと思ってると、鎧(ヨロイ)武者が武器を振り回して城内の者たちを片っ端から斬っていた。何が起こったのか、わしにはまったくわからなかった。ただ、逃げなけりゃ殺されると思い、城から逃げ出したんじゃ。目の前で何人もの者が殺された。逃げ惑う女や子供たちまでも殺された。清須の大和守が急襲したに違いないとわしは思っていたが、古渡に帰ると城は厳重に警固され、城内には戦支度の武者があふれていた。わしは初めて、備後守が那古野を攻めた事を知った。お前の親父は今川殿を守るため那古野城で戦死した。備後守は那古野城を攻めると共に、木下家の本拠地、中村の屋敷も攻撃して皆殺しにした。木下家は今川殿と共に全滅してしまったんじゃ‥‥‥わしは備後守に利用されて、一族を皆殺しにする手助けをしてしまったんじゃよ。

 備後守は那古野城を手に入れると、もう、わしの事など見向きもしなかった。わしは木下家の領地だった中村のほんの一部の土地を与えられて、お祓(ハラ)い箱となったんじゃ‥‥‥わしは京都まで行き、厳しい修行に耐えて茶の湯を身に付け、意気揚々と故郷に帰って来た。その腕を見込まれて備後守に仕えた。しかし、結果は備後守に利用されて、一族を滅亡させる事となってしまった。わしはここに来て、備後守から貰ったお茶道具をすべて叩き壊した。その後、茶の湯は一切やらなかった。さっき見ていた茶碗は今川殿からいただいた物じゃ。あれだけはどうしても壊す事ができなかった。物置の奥にずっとしまって置いて、すっかり忘れてたんじゃが、なぜか急に思い出して、取り出して眺めてたら、お前が帰って来たという訳じゃ」

「今川殿の遺品ですか‥‥‥」

 筑阿弥はうなづいた。

「今川殿は無事に逃げられたという噂も耳にしたが、どうなったのかはわからん‥‥‥わしはここで死ぬつもりじゃった。死んでも、わしのやった事は許されるべき事じゃねえが、そのまま、生きて行く事はできなかった。そんな時、烏森の彦七郎殿がわしの様子を見にやって来て、お前たちを匿(カクマ)ってる事を告げたんじゃ。杉原家も今川家の家臣だったが、備後守が古渡に城を築いてから備後守の家臣になっていた。勿論、彦七郎殿も備後守が今川殿を倒すために古渡に来たとは知らなかった。備後守が今川家の味方だと思ったから従ったんじゃ。ところが、備後守は今川殿を攻めた。その時、古渡城に詰めていた彦七郎殿は備後守に従うより他なかったんじゃ。彦七郎殿としても木下家が滅亡し、気がとがめたんじゃろう。逃げて来たお前たちを匿った。わしはさっそく烏森まで行って、お前たちを引き取った。お前のお袋と一緒になって、お前を育てる決心をしたんじゃ。木下家をお前が再興してくれる事を夢見てのう」

「俺が木下家の再興‥‥‥」

「そうじゃ。お前しかおらんのじゃ。お前には弥右衛門の血が流れている。今川家でも有名な弓取りの血がな。立派な武将になってもらおうと寺に入れたんじゃが、お前は騒ぎばかり起こして追い出された。その後、帰って来るかと思えば、烏森に行き、清須に行き、津島に行き、岩倉に行った。お前なりに世間というものを見て来たじゃろう。さて、これからどうするつもりじゃ」

 筑阿弥は藤吉の顔を見つめた。

「仇(カタキ)を討つ。お父の仇を討つ」と藤吉はすぐに答えた。

「備後守を討つというのか」

「はい」

「どうやって」

 そう聞かれて、藤吉は答えに詰まった。

「仇を討つなら正々堂々と一騎打ちをせい」

「一騎打ち‥‥‥」

 藤吉には自信がなかった。岩倉で弓矢を習ったが、あんなのは子供の遊びのようなものだった。とても、実戦では使えない。

「まずは武芸を身に付ける事が先決じゃな。武芸なら」と言いかけた時、母が子供たちと一緒に畑から帰って来た。

「今の話、おっ母には内緒じゃ」と筑阿弥は小声で言うと、母に向かって、「おい、藤吉が帰って来たぞ」と声を掛けた。

 母も姉もポカンとした顔で藤吉を見つめた。

 母は相変わらずだったが、姉は益々、男だか女だかわからなくなっていた。顔だけを見れば女らしくなったと言えるが、その格好は貧しいながらも、少々かぶいていた。そろそろ嫁に行く年頃なのに、あんな姉を嫁に貰ってくれる男はまず、いないだろう。

 姉の後ろに弟の小一郎と妹のあさがいた。二人とも驚くほど成長していた。寺に預けられる前、一緒に遊んでいた頃、小一郎は五歳であさはまだ二歳だった。それが二人共、見違える程、大きくなっている。小一郎は信じられないほど背が伸び、すぐに藤吉を追い越してしまいそうだった。あさは恥ずかしそうに母の後ろに隠れて、藤吉を見ていた。目がくりっとしていて可愛い娘になっていた。

「兄上、お帰りなさい」と小一郎が言うと、「お帰り、大きくなって‥‥‥」と母が笑顔で言い、姉は威勢よく、「おめえ、相変わらず、猿面だな」と大笑いした。

 久し振りに家族と共に、粗末ながらも楽しい夕食を共にした。

 筑阿弥から話を聞いたその夜のうちに、武芸を習うなら岩倉に行くしかないと藤吉は結論を出していた。岩倉には弓の名人、浅野又右衛門がいるし、林弥七郎もいる。二人のもとで修行を積めば、仇討ちは絶対にできると自信を持っていた。

 次の日、藤吉は家族の見守る中、元服(ゲンブク)して髷(マゲ)を結い、木下藤吉郎秀吉を名乗った。

「秀吉というのはお前の爺様の名じゃ。爺様はこの中村の領主であり、今川家の重臣でもあった偉いお人じゃった。お前も爺様のように偉くなるんじゃ、名前に負けんようにな」

 藤吉郎は力強くうなづき、家族に別れを告げ、岩倉に向かった。

「頑張れよ」と筑阿弥は藤吉郎をじっと見つめながら言った。

「体に気を付けるんだよ。無理するんじゃないよ」と母は目に涙を溜めていた。

 姉は錆びた槍を振り回しながら、「偉くなって来う」と言い、弟と妹は、「また来てね」と笑顔で手を振った。

「今度、帰って来る時は、ちゃんと土産を持って来るからね」と藤吉郎はうちを出た。

 今にも雪が降りそうな空模様だった。天気は悪いが、ただの藤吉から木下藤吉郎秀吉という偉そうな名前になった今、藤吉郎の心の中は希望で燃えていた。

 岩倉に行く前に、どうしても見ておきたいものが二つあった。一つは仇である織田備後守、もう一つは父親が戦死した那古野城だった。仇の顔を知らなければ仇討ちなんてできないし、記憶にもない父親の面影を捜すためにも、那古野城は見ておかなければならなかった。

 藤吉郎はまず、備後守がいる古渡城に向かった。途中、村の入り口にある祠(ホコラ)の前でうずくまっている乞食と出会った。見慣れない乞食だった。また、新しい乞食が住み着いたなと思っていると、乞食はモゾモゾと動きだし、「トーキチ、トーキチ」と藤吉郎の名を呼んだ。かすれているが聞いた事のある声だった。

 藤吉郎は乞食の側まで行ってみた。ボロをまとい、蜘蛛(クモ)の巣のような頭をして、顔は真っ黒だったが、それはおきた観音に違いなかった。

 おきた観音は藤吉郎を見ながら嬉しそうに笑っていた。

「一体、どうしたんだ」と聞いても、ブルブル震えながら笑っているばかりだった。

 おきた観音にはちゃんと家があるはずだった。狂っていても、いつも身綺麗にしていて綺麗な着物を身に付けていた。それが、こんな惨めな格好でいるなんて信じられなかった。

「ごめんよ。俺はおめえに何もしてやれねえ」

 そう言って藤吉郎はその場を離れた。後を追って来るかと思ったが、おきた観音は藤吉郎を見つめているだけで追っては来なかった。この寒い中、そのままにはして置けず、藤吉郎は戻った。放って置いたら死んでしまうかもしれない。いつもだったら、冬でも一枚しか着ていなかったが、幸い、又右衛門の所にいたので重ね着していた。藤吉郎は上着を脱ぐとおきた観音に着せてやった。

「トーキチ、トーキチ」と言いながら、おきた観音は丸くなって笑っていた。腹も減っているようだったが、どうしようもなかった。

「俺はな、藤吉じゃなくて、木下藤吉郎になったんだ。今に偉くなったら、おめえにもいい思いさせてやるからな。寒いけど頑張るんだぞ、死んじゃ駄目だぞ」

 藤吉郎はボサボサになったおきた観音の髪を撫でながら言った。おきた観音は震えながら藤吉郎を見つめていた。その目がかすかに潤んでいるような気がした。何となく、切ない気持ちになって、それを振り払うように藤吉郎は駈け出した。



 古渡に着いて驚いた。信じられない事に、城下は三年前の火災から立ち直っていなかった。かつて、賑わっていた城下町はどこにもなく、処々に侍長屋があるだけだった。城は以前のように堀と土塁に囲まれてあったが、何となく、ひっそりとしている。

 一体、どうしたんだろう。備後守はすでに、ここにはいないのだろうか。

 藤吉郎は途方に暮れた。堀にかかる橋の上から城の土塁を眺めていると、「おい、小僧、そんな所で何をしておる」と門番が怒鳴った。

 藤吉郎は顔をクシャクシャにして笑うと、「へい。古渡のお城下が賑わっていると聞いてやって参りましたが、この有り様を見て呆然としております」と答えた。

「何者じゃ」と聞かれて、藤吉郎は一瞬、まごついた。元服したばかりの名前を名乗りたいが、敵地で木下を名乗るわけにはいかない。幸い、袴は付けていなかった。姉が欲しがったので、姉にやってしまったのだった。脇差は差しているが、行商人に見えなくもない。

「へい。針売りでございます」と藤吉郎は答えた。

「針売りの小僧か。どこから来た」

 門番は疑っているようではなく、藤吉郎はほっとした。

「へい。岩倉のお城下からでございます」

「岩倉にいて、ここの事を知らんのか」

「へい。古渡のお城下に行けば針が売れると聞きましたので」

「とぼけた奴じゃ。お前は騙されたんじゃよ。ここのお殿様はの、三年前に末森の方に移られたんじゃ」

「末森?」

「おう。そっちは賑やかに栄えておるわ」

「末森ってどこなんですか」

「そこの道を真っすぐ行けば行けるわ。一里半位かのう」

 藤吉郎は門番に頭を下げると末森に向かった。

 末森の城下は活気に満ちていた。どの建物も皆、新しく、市場では各地から集まって来た商人が道行く者たちに声を掛けていた。

 藤吉郎は又右衛門に貰った脇差を針に換え、市場の外れにある木賃宿に泊まり、針売りをしながら、備後守の顔を一目見ようと頑張った。しかし、その願いはかなえられなかった。噂によれば備後守は病に臥せっているという。当分、城から出て来そうもないと諦め、父親が戦死したという那古野城に向かった。

 末森から那古野へも一里半程の道程だった。

 那古野の城下は思っていた程、栄えてはいなかった。城下町もさほど広くない。市日ではないのか、市場も閑散としていた。

 城は水をたたえた堀と土塁に囲まれていて、中はよく見えなかったが、かつて、この城を父親が守っていたのかと思うと感慨深かった。槍を持った門番の姿に記憶にない父親の姿が重なった。勇敢に戦っている父親の姿を思い描いていると、突然、城の裏の方から雷のような大きな音が響いた。ビクッとして我に返ると、たまたま側を通りかかった町人に、「あの音は何ですか」と聞いた。

「若殿が馬場で鉄砲のお稽古をなさってるんじゃ」と町人は言うと忙しそうに町中に消えて行った。

 『鉄砲』と聞いただけで藤吉郎の好奇心は騒いだ。若殿というのは備後守の伜、上総介(カズサノスケ、信長)に違いない。藤吉郎はまっしぐらに城の裏へと走り出した。

 柵(サク)に囲まれた広い馬場の片隅に何人かの侍が固まっていた。柵の外にも何人かいて、その声からして若い娘たちのようだった。

 近くまで行ってみると、派手な格好をした娘たちが十人近くもキャーキャー騒ぎながら侍たちを見物していた。馬場の中には年配の侍が一人と若い侍が五人いる。その若い侍たちの格好ときたら、かぶき者の最先端を行っていた。娘たちが騒ぐのも無理なかった。特に上総介と思われる男の姿は思わず見とれてしまう程、決まっていた。

 茶筅髷(チャセンマゲ)を高く結い、浅葱(アサギ)色の着物の上に真っ白な革の陣羽織(ジンバオリ)を着て、同じく真っ白な革袴をはいている。陣羽織の背中には鋭い顔をした鷹の絵が大きく描かれてあった。腰に差した刀は柄(ツカ)も鞘(サヤ)も真っ赤で、草履(ゾウリ)の鼻緒も真っ赤だった。その手に持っているのは藤吉郎が初めて見る鉄砲だった。黒光りした奇妙な杖(ツエ)のような鉄砲は派手なかぶき姿とよく似合い、見ているだけで体がゾクゾクして来るのを感じていた。

 上総介が鉄砲を顔の前に水平に構えた。騒いでいた娘たちも声を殺して、じっと上総介を見つめている。やがて、物凄い音が響き渡って藤吉郎は思わず耳をふさいだ。上総介の顔が白い煙に包まれ、異様な臭いが漂って来た。

 凄い‥‥‥と藤吉郎は感激した。

 祖父は鉄砲の玉に当たると必ず死ぬと言っていた。鉄砲の玉がどんな物だかわからないが、弓矢よりはずっと凄い武器に違いない。

「よお」と突然、後ろから声を掛けられ、驚いて振り返ると針売りの与三郎が立っていた。

「あのうつけ殿は、ただのうつけじゃないのう」と与三郎は上総介を見ながら言った。

「うつけ殿?」

「ああ。那古野の若殿は大うつけじゃと評判じゃ。しかし、あの目付きはただ者じゃねえ」

 藤吉郎は上総介を眺めながら、「うん」とうなづいた。

「ところで、お前はこんな所で何してるんじゃ。岩倉の知り合いは見つかったのか」

「はい、見つかりました」

「そうか。知り合いが見つかったのに、どうして、こんな所にいるんじゃ」

「ええと、色々とわけがありまして‥‥‥」

「お前、一人前に髷を結っておるが元服したのか」

「はい。今朝、元服しました」

「ほう。もう一人前じゃな」と与三郎は笑った。

「あの、おじさんは那古野のお城に今川殿がいた事を知ってますか」と藤吉郎は聞いてみた。

「今川殿? 聞いた事はあるな。しかし、もう十年以上も前の事じゃろう」

「今川殿の家来に木下弥右衛門という弓矢の名人がいたんだけど知ってる?」

「さあな。わしは知らん。その頃、わしは美濃におったからのう」

「なんだ、知らないのか」

「すまんのう。今度は、その木下弥右衛門とやらを捜してるのか」

「違う。弥右衛門はもう死んだんだ。俺の本当のお父だったんだ」

「ほう。お前の本当のお父か‥‥‥」

 娘たちから「隼人(ハヤト)様」と呼ばれている侍が鉄砲を構えていた。上総介も真剣な顔をして、隼人様の撃ち方を見守っている。轟音が響き渡ると、二人の侍が的に向かって走り出した。

 藤吉郎は与三郎に身の上話を聞かせた。

「なに、お父の仇を討つじゃと。馬鹿な事を考えるんじゃねえ」

「これから小折(コオリ)村の生駒様の所に行って、鉄砲を習うんだ」と藤吉郎は鉄砲を見て、ひらめいた事を口に出した。

「なに、お前、生駒様を知ってるのか」

「知らない。でも、そこに伯父さんがいるんだ。伯父さんはそこで鉄砲を作ってるんだ」

「ほう。すると、お前の伯父さんとやらは鉄砲鍛冶なのか」

「うん」

「そうか。わしも明日、生駒殿の屋敷に行くつもりじゃった。一緒に行くか」

「えっ、おじさん、生駒様を知ってるの」

「ああ、知ってる。あそこには各地から浪人者が集まって来るから、お前のお父の事を知ってる奴がおるかもしれんぞ」

「えっ、ほんと?」

「うむ」とうなづくと、与三郎はキャーキャー騒いでいる娘たちを眺めた。「うつけ殿は女子(オナゴ)にも、もてるようじゃのう。ところで、お前、女子は知っておるのか」

「えっ」と鉄砲に見入っていた藤吉郎は、突然、そんな事を聞かれてまごつき、娘たちを眺めながら首を振った。

「女子を知らなけりゃ、一人前とは言えんぞ」と与三郎は笑って、「よし、今晩、筆おろしをするか」と言った。

 与三郎はその晩、馴染みの店があると言って、城下の遊女屋に連れて行ってくれた。

「最初が肝心だからな」と与三郎は何度も言っていたが、連れて行ってくれた遊女屋はあまり高級とは言えなかった。与三郎があまり銭を持っていない事を知っているので文句も言えず、藤吉郎は与三郎に従った。

 藤吉郎の相手は予想に反して綺麗な姉さんだった。さすが、与三郎だと感激したのに、姉さんは無愛想(ブアイソウ)だった。どうしたらいいのかわからず、まごまごしているうちに、姉さんはさっさと着物を脱いで横になった。ふて腐れたような顔で藤吉郎を見上げながら、早く済ませてよ、といった態度だった。それでも、藤吉郎は夢中になった。着物を脱ぎ捨てると姉さんの体にしゃぶりつき、あっという間に事は終わった。

 姉さんは着物を身に付けながら藤吉郎を見下ろし、「以外に大きいじゃない」と笑うと部屋から出て行った。

 藤吉郎は何となく情けなくなって、呆然と自分の一物(イチモツ)を眺めていた。

 しばらくして、与三郎が、「どうじゃった」と入って来た。

 藤吉郎はうなだれたまま、慌てて、ふんどしを絞めた。

「これで、お前も一人前の男じゃ」と与三郎は笑っていたが、藤吉郎はこんな所に来るんじゃなかったと後悔していた。こんな所で筆おろしをするんだったら、津島のヒバリ姉さんやスズメ姉さんの方がずっとよかったと思っていた。

 次の朝、藤吉郎と与三郎は丹羽(ニワ)郡小折村の生駒屋敷へと向かった。
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