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20.夢に向かって

 上総介が帰った後、八右衛門は藤吉郎から上総介と吉乃の様子を聞くと、

「そうか、そうか」と満足そうにうなづいて、吉乃のために新しい屋敷を建てると言い出した。口に出しては言わないが、上総介を迎えるための屋敷に違いなかった。八右衛門が上総介と吉乃を結び付けようとしているのは見え見えだった。

 藤吉郎は吉乃が二度と上総介に会わないように願いながらも、そんな事はおくびにも出さないで八右衛門の考えに同意した。

「立派なお屋敷を建てましょう。吉乃様に相応しい華麗なのを。わたしは昔、大工の奉公もしましたから、お手伝いできると思います」

「なに、猿は大工の経験もあるのか。そいつは頼もしいの」

 吉乃の新居は今、住んでいる屋敷の東、庭園内の池の北側に建てる事に決まり、各地から集まって来た大勢の大工によって建築に取り掛かった。藤吉郎は普請(フシン)奉行となり、八右衛門と相談しながら采配(サイハイ)をふるった。

 吉乃はまだ部屋に籠もりがちだったが、時々、妹の萩乃、菊乃と一緒に近くまで散歩するようになった。そんな時は藤吉郎は娘たちを守るため鉄砲をかついで従った。

 あれから一月経ったが上総介は来なかった。吉乃も上総介の事を話題にする事はなく、藤吉郎はいくらか、ほっとしていた。

 以前、水浴びをした河原に来ると吉乃は、「変わらないわね」と川の流れを眺めた。

「昔のように裸になって水浴びしようか」と萩乃が笑いながら言った。

「いやよ。そんな、恥ずかしいわ」と菊乃が真顔で首を振った。

「冗談よ。この寒い中、水浴びなんかできるわけないでしょ」

「そうよね、びっくりした。萩姉(ハギネエ)は突飛な事ばかりするから、本気かと思ったわ」

「もう、ずっと昔のような気がするわ」と吉乃はしみじみと言って笑った。「楽しかったわね」

「猿がいなくなってから、もっと上流の方で、いい所を見つけたのよ」と萩乃が言った。「もっと深くてね、水の流れが遅いの。あたしたち、お魚のように水の中を潜って遊んでたのよ」

「裸になって?」

「勿論よ。気持ちよかったわ。猿にも見せてあげたかったわ」

「来年の夏を楽しみにしてます」

「来年の夏?」と吉乃は不思議そうな顔をして藤吉郎を見た。

「来年の夏まで藤吉郎はいてくれるの」

「猿はずっといるわよ、ねえ」

 藤吉郎はうなづいた。

「駄目よ、そんなの」と吉乃は強い口調で言った。「藤吉郎には夢があったでしょ。こんな所にいたら駄目よ。夢に向かって行かなくちゃ」

 萩乃が笑った。

「お姉さん、何にも知らないのね。猿の夢はね、お姉さんと‥‥‥」

 藤吉郎は慌てて萩乃の言葉をさえぎった。「何でもないんです」

「ねえ、あたしと何なの」と吉乃は藤吉郎の顔を覗き込んだ。

「ほんとに何でもないんです」と藤吉郎は手を振り続けた。

「お姉さんと一緒に泳ぎたいんでしょ」と菊乃が言った。

「ああ、そうです、はい」藤吉郎は菊乃の言葉に合わせた。

 言い出しっぺの萩乃は知らんぷりしていた。

「藤吉郎の夢があたしと一緒に泳ぐ事なの。そんな事ないわよね。そんなの夢でもなんでもないわ。確か、藤吉郎の夢はお城の主になる事なんでしょ。こんな所にいちゃ駄目よ」

「そうね、お姉さんは立ち直ったみたいだし、また、旅に出た方がいいわ」と萩乃は意地の悪い目付きで言った。

 十一月の半ば、弥平次の四十九日の法要が行なわれ、吉乃の喪(モ)は明けた。喪が明けた途端、吉乃の態度が変わった。喪服を脱ぎ捨て、娘時代の着物を着ると、「やっと、終わったわ」と清々した顔付きで藤吉郎に言った。

 回りを窺って、誰もいないのを確かめると、「ちっとも悲しくなんかなかったけど、世間の目があるからね。一応、静かにしてたのよ」と藤吉郎の耳元で小声で言って笑った。

「悲しくなかった?」

「全然。でも、内緒よ。藤吉郎だからしゃべるのよ。弥平次様はね、子供のままなのよ。何でも母上、母上ってね、いい年をして一人じゃ何もできないの。あんな男がこの世にいるなんて、あたし、信じられなかったわ」

「へえ、そんな奴だったんですか」

「そう。あんな所にお嫁に行くんじゃなかった。藤吉郎を待ってればよかったわね」

「どうして、そんな所にお嫁に行ったんです」

「そんな人だなんて知らなかったもの。あの頃ね、小太郎様があたしに言い寄って来てたわ。最初の頃、いい人だと思ったの。でもね、あの人って男前じゃない。女の子がみんな、キャーキャー言って、それを鼻にかけてる所があるの。自分で自分に惚れ込んでるような所があってね、何となく、いやになったのよ。あたしがいやだと言っても、あの人、自分を嫌う女なんているわけないって自信を持ってるの。何を言っても駄目だったわ。そのうちに、あたしと小太郎様の事は噂になっちゃって、小太郎様と一緒になるか、さもなければ、あたしがどこか遠い所に行くかしかなかったの。丁度そんな時、父上が縁談を持って来て、その相手が弥平次様だったの。小太郎様と一緒になるくらいなら、会った事もないけど、そっちの方がいいかなって思っちゃってね。ついてないわ、まったく。でも、弥平次様も死んじゃったし、合戦で死ぬなんて、あの人にしちゃ上出来よ。今日から再出発しなくちゃね。藤吉郎が側にいてくれて嬉しいわ」

 昨日までとは打って変わって吉乃は饒舌だった。

「言いたい事を言ったら、すっきりしちゃった。ねえ、藤吉郎、岩倉のお城下に連れてってよ。向こうに持って行ったお着物、みんな焼けちゃったでしょ。こんな昔のお着物しかないの。他にも買いたいもの一杯あるしね」

 吉乃は浮き浮きしながら、欲しい物の名前をずらりと並べた。吉乃の笑顔を眺めながら、藤吉郎は自分も浮き浮きしていた。

 一度、嫁に行った吉乃は以前の吉乃とは違った。以前の吉乃は自分から何かをしようという事は滅多になかった。いつも、萩乃が決めて、吉乃はそれに従っていた。今の吉乃は自分から何かをしようとする強い女になっていた。何でも母親の言う事を聞く夫を持って苦労したに違いなかった。精神的にたくましくなった吉乃を眺めながら藤吉郎は益々、吉乃に惹かれて行く自分を感じていた。もう、他人には渡さない。俺が吉乃を幸せにしてやるんだと決心を新たにした。

 喪が明けるのを待っていたのは吉乃だけではなかった。二日後、上総介が供を引き連れてやって来た。八右衛門の屋敷にも寄らず、直接、本曲輪にやって来ると、「おい、猿はいるか」と大声で叫んだ。

 藤吉郎はまもなく完成する屋敷の細かい指図をしている所だった。普請奉行として大工たちを使っている手前、猿と呼ばれるのはいい気持ちはしなかったが、上総介ではしょうがないと大声で返事をして門の方に向かった。

 前野小太郎がいた。

「やあ、元気か」と小太郎は手を上げた。

 小太郎の気持ちも複雑に違いないと思いながら藤吉郎はうなづいた。

「土産じゃ」と上総介は側に置いてある籠を指さした。川魚が山のように入っていた。

「吉乃様にな、元気になるように持って来た。みんなで食ってくれ」

「ほう、大漁ですな」と藤吉郎は大袈裟に驚いて見せた。

 八右衛門が惣兵衛と一緒に二の曲輪の方から慌ててやって来て、

「これは、これは上総介殿、ようお越し下さいました」とニコニコと迎えた。

「なに、今日は土産を持って来ただけじゃ」

「これは、これは、わざわざ、どうも。まあ、取り敢えず、一休みなさって下さい」

 八右衛門は惣兵衛に上総介を本曲輪内の主殿(シュデン)の客間に案内させ、藤吉郎には吉乃を呼ぶように頼んだ。

 藤吉郎は吉乃の部屋に行って、上総介の来訪を告げた。

「そう」と言って吉乃は主殿の方を眺めた。

 上総介の姿は見えないが縁側で控えている供の姿は見えた。

「小太郎様もいらっしゃるのね」と吉乃は一瞬、うなだれた。

「お断りしましょうか」と藤吉郎は聞いた。

 吉乃は顔を上げるとゆっくりと首を振った。「せっかく、来て下さったのに悪いわ」

 吉乃は露乃を連れて主殿に向かった。

 藤吉郎は付いて行かなかった。上総介と吉乃が一緒にいる所を見たくはなかった。

 藤吉郎が縁側にしょんぼりと座り込んでいると萩乃がやって来た。

「どうして行かなかったの」

「何となく‥‥‥」

「どうやら、上総介もお姉さんにまいってるみたいね。小太郎様も来てるし、猿も行くべきよ」

「なぜか、自分が惨(ミジ)めに見えるんだ」

「どうして? お姉さんの事、好きなんでしょ。それなら堂々と行けばいいじゃない。まごまごしてたら今度は上総介に取られちゃうわよ」

「お姉さん、上総介殿の事、何か言ってた」と藤吉郎は心配そうに聞いた。

「今の所は何も言ってないわ。でも、お姉さんの性格からして強引な男の人には弱いわね。上総介は強引そうだもの。これから、ちょくちょく現れるようになると、お姉さんの気持ちもあっちに行っちゃうかもね。今のうちに、はっきりと気持ちを打ち明けるのね」

「今のうちか‥‥‥今のうちなら俺に勝ち目はあるのか」

「あるわ。お姉さんは猿の事、信用してるもの。惚れてるかどうかは知らないけど、猿が打ち明ければ、案外、ころっと行くかもね」

「しかし、八右衛門殿は反対する」

「回りなんて、どうだっていいじゃない。あんた、お姉さんと一緒にここに住むつもりじゃないんでしょ」

「そりゃそうだけど‥‥‥」

「お姉さんを力づくで奪っちゃいなさい」

 萩乃は笑いながら消えて行った。

 主殿の方から笑い声が聞こえて来た。藤吉郎は自分の事を笑っているのではないかと思ったが、首を振って打ち消した。萩乃の言う通り、もっと堂々とすべきだと思った。

 四半時(シハントキ)後、吉乃が帰って来た。頬を上気させ、浮き浮きしているようだった。

「どうでした」と藤吉郎は聞いた。

「面白かったわ。藤吉郎も来ればよかったのに」

 吉乃は露乃と一緒に思い出し笑いをした。「上総介様があんな面白い人だったなんてね。もっと怖い人かと思ってたわ」

「上総介殿は面白かったですか‥‥‥」

「ええ、とっても。川狩りの話から始まって、鷹(タカ)狩りの話や清須のお城下の話など面白く話してくれたわ」

「そうですか‥‥‥」

「あたし、藤吉郎も上総介様の所に行けばいいと思ったわ。あの方なら藤吉郎の事を理解してくれるような気がする。言葉では言えないけど、何となく、上総介様と藤吉郎は似てる所があるような気がしたわ。どこが似てるって言われてもわからないんだけど」

「俺と上総介殿が‥‥‥」藤吉郎は首をかしげた。

「何となくよ。深く考えないで」

 上総介は帰って行った。藤吉郎は吉乃の家来として上総介を門まで見送った。

 七日後、上総介は鷹狩りの獲物(エモノ)を持ってやって来た。上総介が来た事を知らせると吉乃は嬉しそうに笑った。

 そしてまた七日後、上総介は新鮮な海の幸を持ってやって来た。吉乃はその日の朝から、上総介が来るに違いないと浮き浮きしながら待っていた。

 藤吉郎は吉乃の近くにいて、上総介に傾いて行く吉乃の心の変化に気づいていたが、どうする事もできなかった。ひょうきんな事を言って吉乃を笑わせる事はできるが、真面目な顔で気持ちを打ち明けられない。萩乃のいう通り、力づくでも吉乃を抱いてしまえと思うが実行に移す事はできなかった。

 吉乃を抱く機会は何度もあった。露乃がどこかに行って、吉乃が部屋に一人きりでいる時もあったし、茶室で二人きりになった事もあった。二人だけで河原を散歩する事もあったし、吉乃が一人で藤吉郎の部屋に訪ねて来た事もあった。機会は何度もあり、心の中で、「やってしまえ! やってしまえば吉乃はお前のものだ」と誰かが叫んでいたが、実行には移せなかった。

 十二月の十日、吉乃の新居が完成した。新築祝いだと上総介が酒をかついでやって来た。

 本曲輪内の庭園で身内だけのささやかな宴が開かれた。

「無礼講じゃ。みんな心行くまで飲め」と上総介が機嫌よく言った。

 吉乃も嬉しそうに笑っている。萩乃も菊乃も侍女の露乃も久し振りのお祭り騒ぎを楽しんでいた。

 藤吉郎も宴に加わり上総介の側近の者たちと酒を酌み交わし、流行り唄を歌っては踊った。上総介が藤吉郎の事を猿と呼ぶので、皆、猿と呼んだが、そんな事は気にせず仲間に入って楽しんだ。

 日が暮れると宴はお開きとなり、上総介たちは二の曲輪の八右衛門の屋敷に引き上げた。向こうで、もう少し飲もうと藤吉郎も誘われたが、久し振りの酒に酔い潰れてしまった。吉乃が萩乃と二人で部屋まで運んでくれたらしいが、よく覚えていなかった。

 藤吉郎は夜中に目が覚め、喉(ノド)が渇いて中庭にある井戸まで行った。ふと、吉乃の事が気になった。吉乃も慣れない酒を萩乃に無理やり飲まされていた。

 吉乃は大丈夫だろうか、と心配した後、お互いに酔っている今夜こそ、吉乃を抱く、いい機会だと思った。

 空を見上げると半月が出ていて、以外に明るい。藤吉郎はそっと足音を忍ばせて、吉乃の新居に向かった。

 辺りはシーンと静まり返っている。

 吉乃の新居は真っ暗だった。しかし、藤吉郎が采配したので、当然、間取りは知っているし、吉乃が寝ている部屋も知っている。

 藤吉郎は吉乃の寝姿を想像した。吉乃が自分を迎え入れてくれる事を想像し、吉乃の美しい裸を思い描いた。いよいよ今晩、念願の夢がかなうと胸をときめかせて縁側に上がろうとした時、見慣れない草履が目に入った。

 吉乃の草履ではない。露乃の草履かと思ったが大きさが違う。よく見ると革張りの草履で、それは上総介の物に間違いなかった。

 上総介が酔っ払って忘れて行ったのかと思いたかった。しかし、そんな事があるはずがない。草履があるという事はこの中に上総介がいるという事だった。

 藤吉郎は縁側の下にうずくまった。

 もう取り返しがつかなかった。吉乃を上総介に奪われてしまった。ずっと思い続けて来た花をほんの二ケ月程前に現れた上総介に簡単に横取りされてしまった。

 頭の中が真っ白になり、大声で、「上総介の馬鹿野郎」と叫びたい心境だった。

 藤吉郎は吉乃の新居から離れるとフラフラと庭園を横切り、中門をくぐって二の曲輪に出た。的場のある広い庭はシーンと静まり、昼間見るよりもずっと広く思えた。なぜか、弓矢の的の横に篝火(カガリビ)が燃えていた。

 夜中に誰かが弓の稽古をしていたのだろうか。時々、夜襲に備えて、夜中に稽古する事もあるが、今夜やるなんて聞いていない。でも、そんな事はどうでもいい事だった。早く、この場から逃げ出したかった。

 藤吉郎はフラフラした足取りで正門の所に行った。

 夜警の門番が小屋から顔を出して、「なんじゃ、猿か」とほっとしたような顔をした。「どうしたんじゃ、今頃。おめえ、酒臭えな。調子に乗って飲み過ぎたな」

「ええ、ちょっと」

「なんだ、おめえ、泣いてんのか」

「泣いてなんかいません」と藤吉郎は涙を拭いた。

「何があったんじゃ。まあ、入れ」

 藤吉郎は門番に誘われるまま、小屋に入った。小屋の中は暖かかった。

「殿様には内緒だぞ」と言って、二人の門番は酒を飲んでいた。

「さっき上総介殿が来てな、飲めと言って置いて行ったんじゃ。若えが気の利くお人じゃ」

「上総介殿が酒をくれたんですか」

「ああ、おめえも飲むか」

 藤吉郎は門番から酒を貰うと一息に飲み干した。

「ほう。なかなか、いけるじゃねえか」

「もう一杯、下さい」と藤吉郎はお椀を差し出した。

「おめえ、大丈夫か。顔色が青いぞ」

「大丈夫です。酔っ払って何もかも忘れたいんです」

「何があったのか知らねえが、たまには羽目をはずすのもいいじゃろう。おめえはちょっと真面目すぎるぞ」

 門番は酒を注いでくれた。

「上総介殿がわざわざ、こんな夜中に酒を持って来てくれたんですか」

「いや、ちょっと飲み過ぎたから弓の稽古をさせてくれと言って来たんじゃ」

「弓の稽古?」

「ああ、篝火があったじゃろう」

「上総介殿が弓の稽古を‥‥‥いつの事です」

「そうさのう、半時(ハントキ、一時間)位前かのう」

「それで、上総介殿はその後、どこに行ったんです」

「どこにって、主殿の客間じゃろう」

「本曲輪の方に行ったんですね」

「ああ、そうじゃが。どうしたんじゃ、一体。上総介殿がいなくなったのか」

「いえ‥‥‥何でもないんです」

「おかしな野郎じゃな」

「あの、俺も弓の稽古してもいいですか」

「ああ、構わんが‥‥‥その代わり、火の始末をちゃんとしておけよ」

 藤吉郎は酒を飲み干すと的場に向かった。

 的には十本の矢が刺さっていた。上総介が放った矢に違いない。上総介はここで弓の稽古をしてから吉乃のもとへ忍んで行った。

 どうして、こんな夜中に弓の稽古をしたんだろう。藤吉郎には上総介の気持ちは理解できなかったが、今、思い切り、矢を放ってみたい心境だった。

 藤吉郎は弓を構え、篝火に照らされた的を見つめた。

 憎らしい上総介の笑っている顔が的と重なった。上総介は藤吉郎を馬鹿にしたように大笑いしていた。

「くそ、殺してやる」と藤吉郎は矢を離した。

 風を切って矢が飛んで行き、音を立てて的に刺さるのが聞こえた。

 二本目を構えた。

 吉乃の笑顔が浮かんで来た。

「裏切り者め」と藤吉郎は矢を離した。

 目から涙がこぼれ落ちた。

「力づくでも奪っちゃいなさい」と言う萩乃の言葉が聞こえた。

 萩乃の言う通りだった。上総介が現れる前に、力づくでも奪ってしまえばよかったんだ。駄目で元々じゃないか。吉乃に断られたら、キッパリと諦めればよかったんだ。もう、遅い‥‥‥すでに手遅れだった。

「猿の大馬鹿野郎」と藤吉郎は矢を離した。

 涙が川のように流れていた。憎らしい上総介の顔と吉乃の笑顔が交互に現れ、ついには二人が抱き合っている姿まで現れた。

 藤吉郎は泣きながら矢を射続けた。涙で的も見えなかったが、次々に矢を放って行った。

「くそ」

「馬鹿野郎」

「畜生」とわめきながら力いっぱい矢を射続けた。

 何本放ったのか自分でもわからない。いつの間にか、二人の姿は消えていた。シーンと静まり返った中、「藤吉」と呼ぶ筑阿弥の声が聞こえて来た。

 筑阿弥は藤吉郎を見ながら笑っていた。笑っているだけで何も言わなかったが、藤吉郎には筑阿弥の言いたい事はわかっていた。

「逃げてはいかん。やるべき事をちゃんとやるんじゃ」

 筑阿弥に見られている事を感じながら、藤吉郎は落ち着いた気持ちで矢を放った。矢は勢いよく飛んで行き、的の真ん中に命中した。満足そうに筑阿弥は何度もうなづいていた。

 気がつくとすでに辺りは明るくなっていた。

 藤吉郎は的に向かって、一人、うなづくと弓を置いて本曲輪に戻った。

 朝日が東の空を染め始めた頃、上総介が吉乃の新居から出て来た。草履の向きが反対になっているのに気づき、庭を見て、しゃがみ込んでいる人影に気づいた。

「猿か」と上総介は呼んだ。

「はい」と藤吉郎はしゃがんだまま上総介の顔を仰ぎ見た。

「吉乃はわしが貰った」と上総介は言った。

 聞きたくなかった言葉だったが藤吉郎は受け入れた。

「お前が吉乃に夢中だった事は知ってる。だが、わしも夢中になった。欲しい物は必ず手に入れるのが、わしのやり方じゃ。そうでなくては今の世は生きては行けんのじゃ」

「はい」

「お前の事は八右衛門からも、小太郎からも、三左衛門からも、吉乃からも色々と聞いた。お前は不思議な奴じゃ。お前の話をする時、みんな、楽しそうに話す。何となく気になる奴というのがいる。どこがどう気になるのかわからんが、何となく気になって、みんなの話題にのぼる。お前がそうじゃ‥‥‥吉乃はわしの側室にするつもりじゃ。吉乃もうなづいてくれた。どうじゃ、猿、わしの家来にならんか」

 藤吉郎は上総介を見上げ、どう答えたらいいか迷った。自分を高く売り付けるため、すぐに返事をしない方がいいかもしれないと思った。しかし、上総介の顔を見ているうちに考えは変わった。この男と付き合って行くには、ごまかしは効かない。本音で勝負するしかないと思った。

 藤吉郎は力強くうなづいた。

「よし、最初は小者じゃ。それでもいいか」

「はい、構いません。ただ‥‥‥」

「ただ、何じゃ」

「吉乃様を、吉乃様を幸せに‥‥‥」

 上総介はうなづいた。

「わかっておる。胡蝶がいなかったら正妻にしたいと思っているくらいじゃ」

「お願いいたします」

「よし、朝駈けじゃ。ついて来い」

「はい」

 朝焼けの中、藤吉郎は必死になって上総介の馬を追いかけて行った。その顔はすっかり立ち直っていた。吉乃の事は忘れ、もっと大きな夢に向かって、上総介という男と共に生きて行こうと藤吉郎は何度目かの決心を固めていた。

 ふと、おきた観音の声が聞こえたような気がした。

「トーキチ、ガンバレ」と。





 上総介の側室になった吉乃は翌年の冬、元気な男の子を産んだ。奇妙丸(キミョウマル、信忠)と名付けられた、その子は正室の胡蝶に子がなかったため上総介の嫡子(チャクシ)となった。翌年には次男、茶筅丸(チャセンマル、信雄)を生み、その翌年には徳姫を産んだが産後の肥立ちが悪く、永禄九年(一五六六)、二十九歳の若さで亡くなった。

 その頃、藤吉郎は鉄砲足軽の頭となり、林弥七郎の娘で、浅野又右衛門の養女となっていた於祢(オネ)を嫁に貰っていた。吉乃危篤(キトク)の報が来るや小牧山城内の吉乃の屋敷まで飛んで行き、吉乃に最期の言葉を掛けた。

「できる事なら、もう一度、あの夏の日に返りたい」

 藤吉郎がそう言うと、やつれた吉乃は藤吉郎をじっと見つめて首を振った。

「後ろを振り返っちゃ駄目。しっかりと前を見て、夢に向かって走って行ってね」





 吉乃の言葉通り、藤吉郎秀吉は夢に向かって、まっしぐらに走り続けた。その夢は上総介信長のもとで、どんどんと膨れ上がって行き、止(トド)まる事を知らなかった。

 上総介の後を継いで、ついに天下を統一し、さらに朝鮮、そして中国にまで手を伸ばそうと夢を見た。しかし、その夢は一代でついえ、徳川家康の夢へと引き継がれて行った。

 三輪弥助は藤吉郎が上総介に仕えた後、ようやく、藤吉郎の姉、ともと念願の祝言を挙げた。二人は死ぬまで仲睦まじく、藤吉郎の夢を実現するために身を惜しまず働き続けた。

 藤吉郎と出会い、藤吉郎とは別の夢を見た石川五右衛門は忍びとして藤吉郎を陰で支え、藤吉郎に天下を取らせる事によって、『世直し』という夢を実現して行った。ところが、藤吉郎が天下を統一すると、やりたい放題の藤吉郎に反発して対立。藤吉郎の財宝を奪い取ろうとして捕まり、盗賊の首領として釜煎(カマイ)りの刑で殺された。






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