藤吉郎は河原に座り込み、ぼうっと川の流れを眺めていた。
「木下家の生き残りは、お前だけじゃ。きっと、木下家を再興するんじゃぞ」
筑阿弥の声が聞こえたような気がした。でも、どうやったら木下家を再興する事ができるのか、藤吉郎にはわからなかった。
小六の所は楽しかった。小六の屋敷に出入りしている野武士たちは癖のある男たちばかりだったが、義理堅く、人情に厚い男たちだった。そのまま野武士の仲間に入ってしまう事もできたが、ちゃんとした武士にならなければ、木下家を再興した事にはならない。
岩倉の浅野又右衛門の所に行って、岩倉のお殿様に仕えようか。でも、又右衛門の養子になったら、浅野家を継ぐ事になって、木下を名乗る事はできなくなる。
一体、どうしたらいいんだ‥‥‥
藤吉郎は河原に寝そべった。空が眩しいくらいに青かった。顔に桜の花びらが落ちて来た。見上げるとすぐ側に桜が満開に咲いている。もう、こんな季節になったのか‥‥‥
桜の花を見上げ、故郷の事を思い出しながら、いつの間にか眠ってしまった。
キャーキャー騒ぐ女の声で目を覚まし、川の方を見ると三人の娘が水遊びをしていた。着物の裾をまくって川の中ではしゃいでいる。侍の娘たちか、贅沢な着物を着ていて、顔付きもどことなく上品だった。
一瞬、夢でも見ているのだろうかと思う程、その娘たちは美しかった。二人の娘は藤吉郎と同じ位で、後の一人は十歳位の三姉妹のようだ。藤吉郎はぼうっとして姉妹に見とれていた。
「そっちの方に行くと危ないですよ」と女の声がした。
声の方を向くと二人の女が三姉妹を見守っていた。さらに後ろには侍が二人、弓と槍を手にして立っている。侍の一人は見覚えがあった。生駒屋敷の浪人長屋で飯の支度をしていた兵法(ヒョウホウ)指南役の富樫惣兵衛だった。どうして、惣兵衛がこんな所にいるのだろうと不思議に思いながら、藤吉郎は惣兵衛の方に近づいて行った。
「おい、小僧、そんな所で何をしておる」と弓を持った侍が怒鳴った。
「おじさん、針はいらないかい」と藤吉郎は聞いた。
「なに、お前はいつかの針売りか」と槍を持った惣兵衛は思い出してくれた。
「惣兵衛殿、こいつを知ってるんですか」
「鍛冶小屋にいた猿じゃよ」
「おお、こいつが猿か」弓を持った侍は藤吉郎の顔を見て、「うむ、そっくりじゃ」とうなづいて笑った。
「お前、どこに行ってたんじゃ」と惣兵衛が聞いた。「孫次が捜しておったぞ」
「伯父さんが俺の事を」
「ああ。急にいなくなったと言ってのう」
「伯父さんが鉄砲を教えてくれないから、小六様の所にいたんだ」
「なに、小六というと蜂須賀小六か」
「うん。でも、もう、鉄砲の事はいいんだ」
「そう言えば、仇を討つとか言っておったの」
「もう、いいんだ。仇は死んじゃった‥‥‥それより、あの娘たちは誰なの」
「生駒殿の娘さんたちじゃ」
「へえ、八右衛門様の娘さんなの」
「馬鹿言うな。八右衛門殿にあんな大きな娘がいるか。妹さんたちじゃ」
「へえ、あの人の妹さんだったの‥‥‥綺麗な人ですね」
「まあな。まだ、子供じゃが、後二、三年もすれば別嬪(ベッピン)になる。だがの、お前が惚れても高嶺の花じゃ。諦めるんじゃな」
娘たちが川から上がって来た。桜の木の下で足を拭きながら、一番上らしい娘が藤吉郎の方を見た。藤吉郎もその娘を見つめた。まくり上げた着物の裾から出ている白い足がやけに眩しかった。
娘は着物の裾を下ろすと藤吉郎の方にやって来た。
「惣兵衛、誰なの」と美しい声で聞いた。
「姫様、こいつは、えーと」
「木下藤吉郎と申します」と藤吉郎は名乗った。
「藤吉郎さん、あなたは何者なの」
何者と問われて、藤吉郎は何と答えたらいいのか戸惑った。一体、俺は何者なんだろうと自分に聞いていた。
「浪人じゃ。な、今のお前はわしらと同じ、浪人じゃ」と惣兵衛が答えてくれた。まさしく、今の俺は浪人に違いなかった。
「いくつなの」と娘は聞いた。
藤吉郎は十五だと答えた。
「まあ、若い浪人さんだこと。あたしと一つ違いだわ」
「一つ違いというと、十四ですか」
娘はうなづいた。
「浪人さんて事は今、お仕事を捜してるの」
藤吉郎は惣兵衛に返事を求めたが、惣兵衛は知らんぷりしていた。藤吉郎は仕方なくうなづいた。
「ねえ、藤吉郎さん、あたしたちの家来(ケライ)にならない」と娘はとんでもない事を言った。
「はぁ」と藤吉郎はどう返事をしたらいいのかわからなかった。
「そいつはいい。お前、姫様たちの家来になれ」と惣兵衛は言い、もう一人の侍も笑いながら賛成した。
「いいわね、決まりよ」と娘は決めつけ、「ねえ、みんな、来て」と妹たちを呼んだ。「この人、あたしたちの家来なのよ。今まで、父上様の家来ばかりだったけど、今からあたしたちにも家来ができたのよ」
娘たちは大喜びして、キャーキャー騒いでいた。
長女の名は吉乃(キツノ)、次女は十三歳で萩乃(ハギノ)、三女は十歳で菊乃という名前だった。三人共、美人で、しばらくは彼女たちの家来になるのもいいだろうと藤吉郎は思った。しかし、娘たちは残酷だった。川の中に扇子(センス)を投げて、取って来いと命じた。投げたのは次女の萩乃だった。
「駄目よ、そんな事しちゃ」と吉乃は言った。「でも、あたしたちの家来なら取って来てくれるわ。それに、家来ならあたしたちを守るのが仕事でしょ。あれが取れないような人にあたしたちを守れないわ」
萩乃の投げた扇子はどんどん流れて行った。藤吉郎は扇子を追って走り、川の中に入ると泳いで、扇子を捕まえた。びっしょりになって戻って来ると、「お猿さんみたい」と三女の菊乃が笑った。
「ほんと」と萩乃も大笑いしたが、吉乃だけは笑わず、「大丈夫?」と心配顔で扇子を受け取った。
藤吉郎は三姉妹の家来になった。家来になったと言っても、三人の遊び相手に選ばれたようなものだった。生駒屋敷の奥深くで大切に育てられ、侍女や生駒家の家来に囲まれてはいても、同じ年頃の男の子はいなかった。
三人の娘は、「藤吉郎、あれして、これして」と藤吉郎の手を引っ張り合った。普通なら、娘たちの遊び相手なんか、馬鹿らしくてやってられるかと思うが、藤吉郎は吉乃に一目惚れしてしまった。確かに、藤吉郎には高嶺の花で、どうこうできる娘ではなかったが、側にいられるだけでも構わないと思っていた。
屋敷に帰ると門の所で惣兵衛は浪人長屋の方に帰って行った。藤吉郎も惣兵衛の後を追おうとすると吉乃が止めた。
「藤吉郎はこっちよ」
門をくぐり、八右衛門の屋敷のある二の曲輪(クルワ)を通り抜け、中門をくぐって、本曲輪に入った。正面に大きな御殿のような建物があり、その向こうにも建物があった。広い庭には築山(ツキヤマ)があって池もあり茶室まで建っている豪勢な屋敷だった。
「あそこがあたしたちのうちよ」と萩乃が奥の方の建物を指さした。
藤吉郎は河内と呼ばれている侍と二人の侍女と一緒に三姉妹の後について、奥の建物に向かった。広い縁側で刀の手入れをしている侍がいた。
「父上様、ただ今、帰りました」と吉乃が言った。
「おう、川遊びは楽しかったか」と父親は刀を鞘(サヤ)に納めた。
三姉妹の父親という事は八右衛門の父親でもあったが、山賊のような八右衛門とは違い、普通の侍のように見えた。
「父上様、あたしたちの家来ができたのよ」と萩乃が言った。
「なに、家来じゃと」と父親は藤吉郎を見て、「何者じゃ」と河内に聞いた。
「鉄砲鍛冶の孫次の甥です」
「おう、そうか。八右衛門がそんなような事を言っておったの」
「木下藤吉郎です」と藤吉郎は名乗った。
「ほう、侍の子か」
「ね、いいでしょ。あたしたちの家来にしても」と吉乃が聞いた。
「河内、今、長屋に空きはあるのか」
「一人位なんとかなるでしょう」
「そうか、そこに入れてやれ」
娘たちはワイワイ喜び、あたしたちが案内すると言って、藤吉郎の手を引いた。
本曲輪は板塀によって二つに分けられ、塀の西側には侍たちの詰めている遠侍(トオザムライ)や侍長屋、台所などがあり、大きな蔵が三つも並んでいた。
藤吉郎は長屋の一室に案内された。浪人長屋とは違って、ここにいるのは皆、生駒家の家臣たちだった。生駒屋敷の本曲輪内の長屋に住めるなんて、夢でも見ているようだった。鉄砲鍛冶の孫次郎が聞いたら、腰を抜かしてしまうかもしれないと思った。
驚いた事に富樫惣兵衛も同じ長屋に部屋を持っていた。この前会った時、浪人長屋の主のような顔をしていたし、今日も向こうに帰ったので、ずっと、あそこに住んでいるものと思っていた。ここに部屋を持っていたなんて信じられなかった。さらに、驚いた事には奥さんもちゃんといて、十六歳になる娘と十三歳になる息子もいた。娘の名は松といい、侍女(ジジョ)として八右衛門の子供たちの面倒をみていて、善太郎という息子は今、寺に入って学問をしているという。惣兵衛は女癖が悪く、年中、浮気しては奥さんにばれ、奥さんが怖くて浪人長屋に逃げているらしかった。
「ついこの間もね、岩倉のお城下で女遊びをして、それが奥さんにばれたのよ。それで、ああして、向こうの長屋に隠れてるのよ」と吉乃が説明してくれた。
「でも、二、三日したら、いつも戻って来るのよ。奥さんがやきもちを焼き過ぎるんだわ」と萩乃は言った。
藤吉郎は三姉妹に連れられて、屋敷内を隅から隅まで見て回った。生駒家の屋敷は広大だった。本曲輪だけでも蜂須賀小六の屋敷よりも広く、さらに、二の曲輪、三の曲輪があり、大勢の侍や女たちが働いていた。三の曲輪には船着き場があり、商品である灰と油を各地に運送する馬借(バシャク)の基地になっていた。娘たちは三の曲輪に入る事ができないので、藤吉郎も入れなかったが、物見櫓(ヤグラ)の上から中の様子を眺める事ができた。威勢のいい人足たちが船から降ろした荷物を納屋(ナヤ)に運び、別の納屋では馬に荷物を積んでいた。
生駒屋敷での藤吉郎の新しい生活が始まった。朝早く起き、主人の三姉妹とその両親に挨拶をし、午前中は三姉妹が読み書きや琴などの稽古をしているので、藤吉郎は侍たちと一緒に兵法指南役の惣兵衛から武芸を習った。午後は三姉妹の遊び相手を務めるのが仕事だった。
我がままな三姉妹の遊び相手は時には、いやになる事もあったが、清須の職人たちの所にいた時に比べたら、ずっと楽で、極楽にでもいるような気分だった。八右衛門のお古だというが立派な着物を着て、腰には立派な脇差を差し、姉妹のお供をして外に出る時は弓矢をかつぎ、一角(ヒトカド)の侍になったようだった。
長女の吉乃は物静かで女らしく、決して無茶な事を言わなかったが、次女の萩乃は男まさりで何事も雑だった。藤吉郎の事を猿呼ばわりして無理難題を押し付けては楽しんでいた。それでも、小六の妹たちに比べたら、まだ可愛いと言えた。三女の菊乃は難しい事は言わないけれど、すぐに大声で泣いて藤吉郎を困らせた。
伯父の孫次郎は鍛冶小屋にいなかった。どうしてもわからない所があり、改めて、鉄砲の作り方を学ぶため、源助を連れて泉州の堺まで行ったという。
ある日、藤吉郎は萩乃に連れられて、蔵の裏にある物置小屋に行った。萩乃は足音を忍ばせて、そっと物置小屋に近づいて節穴から中を覗くと藤吉郎に手招きした。
「何があるんだ」と聞くと萩乃は笑うだけで答えなかった。
藤吉郎が節穴から覗くと、薄暗い小屋の中に誰かの背中が見えた。そして、その下に女の白い体があった。男が乳房に顔を埋め、女の手が男の首にからみついている。男の顔はわからないが、女は台所で働いている女中だった。いつか、文句を言われた事があり、憎らしい女だと思っていた。その女が甘えたような声を出して体をくねらせている。
藤吉郎は蜂須賀屋敷のおしまを思い出した。今頃、どうしているだろうと思ったが、節穴から目を離すと首を振り、萩乃を見た。
「面白いでしょ」と萩乃は笑った。
藤吉郎は萩乃の手を引いて小屋から離れた。
「又五郎とおトキよ。いつも、あそこでやってるの。猿もああいう事、するの」
「俺はしない」と藤吉郎は首を振った。
「へえ、猿はしないの。男の人は皆、あれが好きだって聞いたわよ。ねえ、あたしとやってみる?」
藤吉郎は萩乃の顔を見つめ、体を眺めた。十三歳といえども体つきはもう一人前の女だった。一瞬、やりたいと思ったが、吉乃の手前、それはできなかった。萩乃に手を出せば、吉乃は永遠に遠ざかってしまう。
「何を言ってるんだ。そんな事をしたら、俺はここから追い出されてしまう」
「あたしじゃ、いやなの」と萩乃は藤吉郎の手を取ると素早く、自分の着物の懐(フトコロ)に差し入れた。萩乃の張りのある暖かい乳房が藤吉郎の手の中にあった。藤吉郎の本能はその肌の温もりに負けそうになったが、吉乃の顔を思い出して手を引っ込めた。
「やっぱり、お姉さんとやりたいのね」
「違う」
「赤くなった。やっぱり、猿はお姉さんが好きなんだわ」
「違う」と藤吉郎は手を振った。
「違わないわ。猿がお姉さんを見る目は違うもの」
「もういい‥‥‥なあ、お姉さんもあれを覗いたのか」
「お姉さんは駄目よ。あんなの見せたら、気絶しちゃうわ。まったく、うぶなんだから」
それから三度、藤吉郎は萩乃と一緒に覗き見を楽しんだ。毎回、男と女の組み合わせは違い、見られているのも知らずに大胆な行為を演じていた。覗き見をした後、必ず、萩乃は藤吉郎を誘って来た。藤吉郎は我慢し続けていた。三度めの時、吉乃に見つかり、吉乃はそっと後をついて来た。藤吉郎が興奮して節穴を覗いていると、背中をたたかれ、ビクッとして振り返ると吉乃がいた。
「何があるの」と吉乃は節穴を覗いた。
まずい、と藤吉郎は萩乃と顔を見合わせた。「あたし、知らない」と萩乃はさっさと行ってしまった。
藤吉郎は吉乃が気絶したらどうしようと心配した。吉乃はいつまでも節穴を覗いていた。ようやく節穴から目を離すとゆっくりと藤吉郎の方を向き、「凄いわね」と言った。
その顔は放心状態だった。藤吉郎は吉乃の手を引いて静かにその場を離れた。
「ねえ、藤吉郎もあんな事するの」と吉乃は萩乃と同じ事を聞いた。
藤吉郎は首を振った。
「そう‥‥‥」と吉乃は言っただけだった。萩乃のように、「あたしとやってみる?」とは言わなかった。吉乃がそう言えば、文句なく、藤吉郎は吉乃を抱き締めていたが、吉乃はぼんやりとしたまま屋敷に帰って行った。
その後、藤吉郎は覗き見をやめた。萩乃も藤吉郎を誘う事はなかった。
夏真っ盛りの暑い日、藤吉郎は三姉妹と共に、近くの河原に水遊びに出掛けた。近くだったので侍女もついて来なかった。
三姉妹は気持ちいいと言いながら着物の裾をまくって川の中で遊んでいたが、菊乃が転んでしまい着物がびっしょりになってしまった。
「早く乾かさないと怒られるわよ」と萩乃は菊乃を裸にして、着物を河原の石の上に広げて干した。
裸にされて菊乃は泣いていたが、そのうちに川の中に首までつかってキャーキャー喜び出した。吉乃と萩乃は羨ましそうに菊乃を眺めていた。そして、回りを見回し、誰もいないのを確かめると顔を見合わせて、うなづき合った。
「猿、いいわね。ちゃんと見張ってるのよ。誰かが来たら、すぐに教えるのよ」
萩乃はそう言うとさっさと着物を脱ぎ始めた。帯を解いて着物を脱ぎ散らかすと腰巻も取って川の中に入って行った。
藤吉郎は目を点にして萩乃の裸を眺めていた。我に返って吉乃の方を見ると、吉乃はようやく帯を解いた所だった。
「こっちを見たら駄目」と吉乃は藤吉郎を睨んだ。
藤吉郎は仕方なく吉乃に背を向けた。しばらくして振り返ると、吉乃は川の中に腰までつかってキャーキャー言っていた。形のいい乳房が眩しい光の中で揺れていた。
「こっち見ちゃ、駄目だったら」と吉乃が水しぶきを藤吉郎に浴びせた。
「猿もいらっしゃいよ、気持ちいいわよ」と萩乃は誇らしげに裸を見せびらかしながら手招きした。堂々としているだけあって、吉乃より萩乃の方が立派な乳房を持っていた。
「駄目よ、絶対に来ちゃ駄目」と吉乃は胸を隠しながら言った。
「俺はいつでも入れますから。ちゃんと見張ってます。ゆっくりと楽しんで下さい」
藤吉郎は大きな石の上に立ち、誰も近づいて来ないように回りを見張りながら、こっそりと吉乃の裸も楽しんでいた。
三姉妹は裸の水浴びがすっかり気に入り、茹だるような暑さの日は決まって、藤吉郎に見張りをさせて水浴びをした。恥ずかしがり屋の吉乃もだんだんと大胆になり、「見ちゃ駄目よ」と言いながらも藤吉郎の目の前で平気で裸になっていた。
裸の吉乃を目の前にしながら、どうする事もできないのが残念でたまらなかった。好きでたまらない吉乃を夢の中だけでしか抱く事ができないのが辛かった。吉乃に手を出せば、生駒屋敷から追い出されるのは確実、下手をすれば吉乃の父親に手討ちにされる事も充分に考えられる。命を賭けてまで吉乃を抱く度胸は藤吉郎にはなく、悶々(モンモン)とした日々を送っていた。
七月十四日、生駒屋敷の馬場で盛大に盆踊りが催された。弁慶に扮した藤吉郎は静御前に扮した吉乃と義経に扮した萩乃、桃太郎に扮した菊乃の供として盆踊りに参加した。
正月の時のように大勢の人たちが各地から集まって来て、夜遅くまで大騒ぎだった。それぞれが皆、好き勝手な格好をして踊っている。遊女に扮した髭面の人足もいるし、若侍に扮した村娘もいる。露店商に扮してガラクタを売っている浪人もいるし、乞食(コジキ)に扮した侍もいる。誰が誰なのか、まったくわからず、飲めや踊れと騒いでいた。
侍女に連れられて三姉妹が屋敷に帰った後も、藤吉郎は汗びっしょりになって踊り狂っていた。踊りに熱中し、何もかも忘れたかった。吉乃の事を忘れたかった。もう、これ以上、自分を押さえる事ができそうもなかった。いつか、衝動にかられて、いやがる吉乃を抱き締めてしまうに違いない。吉乃が自分なんか相手にしないのはわかっているが、吉乃を思う気持ちは大きくなるばかりだった。藤吉郎は夢中になって踊り狂った。
「おーい、猿!」と誰かが大声で呼んでいた。
藤吉郎は踊りをやめて、声のする方を見た。いつもより増して、かぶいた姿の蜂須賀小六が仲間たちと一緒に藤吉郎を呼んでいた。
藤吉郎は小六の側まで行った。
「おめえ、どこにいたんだ」とマサカリをかついだ三輪弥助が聞いた。
「あれから、ずっと、ここにいました」
「何だ、そうだったんか。急に消えたんで、那古野にでも行ったんかと思ったぞ」
「那古野?」
「ああ。うつけ殿を討つためにな」
「もう、仇討ちはやめました」
「やめたのか」と小六が聞いた。
藤吉郎はうなづいた。
「鉄砲を習うのもやめたのか」
「鉄砲は習いたいけど‥‥‥今の俺は何をやったらいいのかわかんないんだ」
「おめえが消えて、女どもが困ってたぞ。働き者がいなくなったってな」
「そうですか‥‥‥」
「あたしたちも困ってたのよ」とおすわが言った。おすわは相変わらず男の格好をしていたが、青山新七郎に寄り添い、何となく、女っぽくなったように思えた。
「可哀想に、おしまの奴は泣いてたぞ」と弥助が言った。
「おしまが‥‥‥」
「猿はおしまといい仲だったんだってねえ、知らなかったわ」とおすわが言った。
「この色男が、女子(オナゴ)を泣かすんじゃねえ」と弥助は藤吉郎を小突いた。どうやら、弥助はおすわに振られたようだった。
「心配するな。おしまの奴はおめえを見捨てて、他に男ができたわ」
「他の男?」
「ああ、門番の彦八じゃ。奴はおしまと一緒になるつもりでおる」
「そうですか‥‥‥」
「猿、この前、おめえの親父の事を知ってる男に会ったぞ」と前野小太郎が言った。
「えっ、ほんとですか」
「ああ。岩崎城の丹羽(ニワ)若狭守という男がおめえの親父を斬った男じゃった」
「丹羽若狭守?」
「うむ。若狭守が言うには、おめえの親父はな、敵ながらも、あっぱれな弓取りだったとの事じゃ。わしは知らなかったが、当時、那古野の城には今川氏がいたそうじゃのう。木下弥右衛門は今川氏を城から逃がすために、必死に弓を射続け、敵を近づけなかったそうじゃ。矢が尽きると太刀を振り上げ、大軍の中に突撃して来た。弥右衛門の勢いを恐れて、皆が尻込みしている所を若狭守が立ち向かい、死闘の末、弥右衛門の首を挙げたそうじゃ。その時の活躍によって若狭守は岩崎城の城主になったらしい」
「ほう、おめえの親父も大した男じゃねえか」と小六が感心した。「そういえば、那古野に今川氏がいたというのは聞いた事がある。その今川氏というのは駿河(静岡県東部)の今川と関係あるのか」
「うむ。治部大輔(ジブダユウ、義元)の弟らしいな」
「まだ、生きているのか」
「いや。備後守に殺されたらしい」
「じゃろうな」
「あの」と藤吉郎が言葉を挟んだ。「今川殿が駿河にもいるんですか」
「おめえも世間知らずじゃのう。今川氏というのは駿河、遠江(トオトウミ、静岡県西部)、今では三河(愛知県東部)までも支配下においている東海一の大名じゃ。那古野にいた今川氏はその分家にすぎん」
「駿河、遠江、三河?」と言いながら、藤吉郎はキョトンとしていた。
小六はしゃがむと土の上に簡単な絵地図を描き、それぞれの場所を示した。尾張の国の東隣に三河の国があり、さらにその東に遠江、駿河があった。
「今川氏は東海一の大名なんですね」と藤吉郎は聞き返した。
小六は大きくうなづき、「駿河に行くか」と聞いて来た。
藤吉郎は力強くうなづいた。
「親父に負けんなよ」と弥助が言った。
藤吉郎は弥助にうなづき、「やるぞ」と大声でわめくと、また、狂ったように踊り始めた。
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