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1.赤とんぼ

 夕日が真っ赤に燃えていた。

 河原の土手の草むらから、突然、小坊主が顔を出した。辺りをキョロキョロ見回し、ニコッと笑うと、「ヨッホッホー」と叫んで、勢いよく飛び上がった。

 嬉しそうに鼻歌を歌いながら踊るような足取りで、小坊主は夕日を背にして歩き始めた。あちこち破れたボロ同然の着物をまとい、顔も手足も泥だらけ、そんな事はお構いなしとニコニコしている。その顔は何とも言えない愛嬌にあふれ、どことなく猿のようだった。

 小坊主は急に立ち止まると振り返り、夕日に向かって、あかんべえをすると両手を振り回しながら勢いよく走り出した。

 回りの景色を眺めながら、「ひでえなあ」と小坊主は叫んだ。

 田畑は荒れ果て、朽ち果てた空き家がやけに目に付いた。戦続きで田畑が荒らされるにもかかわらず、年貢は跳ね上がる一方だった。厳しい取り立てに耐えられず、新しい天地を求めて逃げ出す百姓が多かった。

 小坊主が生まれた頃、故郷は大きな村だった。辺り一面、田畑が広がり、作物が豊富に稔っていたのに、今は田畑よりも荒れ地の方が多く、人の住む家よりも空き家の方が多いという有り様だった。

 荒れた田畑に赤とんぼが気持ちよさそうに飛び回っていた。小坊主はニヤッと笑って、赤とんぼを捕まえようとしたが、急に手を止めると、「おっ母たちは無事だろうか」とつぶやいた。

 小坊主は急に心配になり、急いで我が家へと向かった。
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2.清須城下

 杉原彦七郎と従兄の五郎の葬儀も無事に終わった。

 彦七郎の娘、おすみとおふくの二人は、ずっと泣き通しだった。おかみさんが忙しそうに働いているので、藤吉は二人を慰めるのに一生懸命だった。今まで、怖いと思っていたおすみも本当はか弱い女の子なんだと女を見る目がほんのちょっと変わっていた。

 二人も何とか立ち直り、藤吉自身の心の傷も癒えると、また、京都への旅が胸の中に膨らんで来た。

 京都は遠い‥‥‥京都へ旅立つ前に、まず、尾張の都である清須(清洲町)を見ておくべきだと思った。

 藤吉は世話になった皆に別れを告げると、清須に向かって旅立った。

 清須の城には武衛(ブエイ)様と呼ばれる尾張の守護、斯波左兵衛佐義統(シバサヒョウエノスケヨシムネ)がいて、その守護代として織田大和守(ヤマトノカミ)広信がいた。武衛様は尾張の国の守護だったが、尾張の国をまとめる力はなく、大和守に保護されているといった状況だった。かといって大和守が尾張の国を支配しているのかというとそうでもない。大和守の奉行である織田備後守(ビンゴノカミ)信秀が尾張国内では最も勢力を持っていた。

 当時の尾張の国の状況は複雑だった。応仁の乱の時、尾張の守護職(シュゴシキ)だった斯波氏が家督争いを始めて、東軍と西軍に分かれて戦ったため尾張の国も二つに分けられ、上四郡は岩倉を本拠地とする斯波氏の管轄となり、下四郡は清須を本拠地とする斯波氏の管轄となった。上四郡を支配する岩倉には、すでに守護である斯波氏はいないが、守護代として織田伊勢守信安がいて、清須の織田大和守広信に対抗している。織田備後守は清須の大和守の奉行の一人にすぎなかったのに、勝幡(ショバタ)城(中島郡平和町)を本拠地として、津島の商人たちと結び、経済的に優位の立場に立ち、さらに、那古野(名古屋市中区)に進出して熱田の商人とも結び勢力を拡大した。また、隣国の三河(愛知県東部)や美濃(岐阜県南部)にも積極的に進出して、守護代の両織田氏をしのぐ活躍をしている。そんな事は、まだ十一歳の藤吉は知らない。ただ、清須と聞けば、都という印象が強く、京都に行く前に見ておかなければならないと思っていた。
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3.蛤

 津島は大勢の人で賑わっていた。

 牛頭(ゴズ)天王社の門前町として栄え、さらに、木曽川の支流、及(オヨビ)川と墨俣(スノマタ)川が落ち合う川港として、大小様々な船が行き交っていた。熱田に向かう船や伊勢の桑名へ向かう船、川を上って美濃方面に向かう船も出るため、旅人も多く、大通りに面して立つ旅籠屋(ハタゴヤ)や木賃宿(キチンヤド)から客引きが大声で客を呼んでいた。

 牛頭天王社の門前の市には新鮮な海産物が並び、藤吉は目を丸くして、見た事もない魚や貝を眺めて回った。門前町から少し離れると大きな蔵が建ち並ぶ商人たちの町になる。商人たちの屋敷は皆、大きくて立派で、威勢のいい人足たちが荷車に山のような荷物を積んで大通りを行き交っていた。

 母の妹、おてるが嫁いだ加藤喜左衛門の屋敷は大河へとつながる川に面して建っていた。船が直接、屋敷に横付けになって荷物の積み降ろしをしている。

 藤吉は津島の町を見て、初めて、川というものが道のように自由に行き来できるという事を知った。津島の町では船がなければ生活できないと思われる程、牛や馬に代わって活躍している。船で暮らしている者までいるのには驚いた。そして、京都に行くには桑名まで船に乗らなければならない事を知り、喜左衛門の所に奉公して、銭を溜めて、そのまま京都に行こうと決心した。

 喜左衛門は伊勢の塩を商っている商人だった。伊勢から来た塩は荷揚げされ、尾張国内の各地へと運ばれて行った。

 祖父と祖母は三日間、のんびりと孫たちと遊んで帰って行った。藤吉も従弟(イトコ)たちと一緒に遊び、二人が帰ってから叔父のもとで働き始めた。

 商人というから塩を売り歩くのかと思っていたら、叔父の所では行商はしていなかった。各地にある店に塩を運ぶだけで小売りはやっていない。藤吉は毎日、重い塩を船から降ろしては荷車に積むという肉体労働ばかりやらされた。お陰で、足腰は強くなり、腕も太くなったが、背丈はちっとも伸びなかった。人足たちから名前を呼ばれる事もなく、『猿、猿』と呼ばれ、自分の姿がそんなにも猿に似ているのかとがっかりした。さらに、年下の従弟たちまで『猿』と呼び、馬鹿にしたように見るのは辛かった。主人の子供なんだからと自分に言い聞かせて、じっと我慢していたが、とうとう堪忍(カンニン)袋の緒が切れて、従弟を殴って屋敷を飛び出してしまった。
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4.針売り

 岩倉の城下は清須とよく似ていた。

 五条川に面して堀と土塁に囲まれた城が建ち、北と南に町人の住む町がある。新助が塩を運んだ店は城下の北側の町中にあった。津島の喜左衛門の店ほど大きくはないが、威勢のいい人足が大勢、働いていた。

「どうだ、ここで働いてみるか」と新助は言った。

 藤吉は首を振った。

「ここなら、おめえを馬鹿にする従弟はおらんぞ」

「でも、力仕事はどうも苦手です。津島で蛤(ハマグリ)売りをしてみて、俺にはああいうのが合ってるような気がしました」

「行商か‥‥‥うむ、そうかもしれんのう。おめえの蛤売りは評判よかったからな、おめえにゃ向いてるかもしれん。知人がいると言ってたが、そいつが行商やってんのか」

 藤吉はうなづいた。

「頑張れよ」と新助は餞別(センベツ)をくれた。

 藤吉は丁寧にお礼を言って新助と別れた。新助には行商人の知人がいると言ったが、本当は行商人ではなく、侍だった。

 烏森(カスモリ)の杉原家の従姉が二人、この城下の侍のもとに嫁いでいた。その従姉の名はナナとイトといい、ナナの相手の名前はわからなかったが、イトの相手の名前は覚えていた。会った事はないけど、確か、林助左衛門という名だった。その助左衛門を捜し出して、しばらく、お世話になりながら、自分に適した仕事を捜そうと考えていた。

 藤吉は城の側まで行き、武家長屋を見て回った。助左衛門を捜すのは思ったよりも難しかった。長屋が幾つもあり、どこの部署に属しているかがわからないと見つける事は困難だった。結局、その日のうちに捜し出す事はできず、城下の外れにある安い木賃宿に泊まった。
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5.父親

 故郷に帰って来たのは六年振りだった。寺を追い出され、陰ながら母と姉を見てからも三年余りが経っていた。

 やはり、故郷は懐かしかった。藤吉は流行り唄を歌いながら、大手を振って我が家へと帰って行った。

 寒いとはいえ、天気がいいから、みんな、畑の方にいるのだろうと思ったが、うちの中から誰かの咳き込む声が聞こえて来た。

 うまい具合に筑阿弥が一人でうちにいた。日当たりのいい縁側で、綿入れを着て、のんきそうに茶碗を眺めている。

 筑阿弥にしては珍しい事だった。仕事の事しか頭にない、くそ真面目な筑阿弥がぼうっとしている。今まで、あんな姿を見た事がなかった。おかしいなと思いながらも、「ただいま」と声を掛けると、筑阿弥は顔を上げた。

 一瞬、驚いたようだったが、すぐにまた、茶碗に目を落とした。何となく顔色が悪く、やつれたように感じられた。

「お父、病気なのか」と藤吉は思わず聞いた。

 筑阿弥は首を振り、「何でもないわ」と言ったが、急に苦しそうに咳き込んだ。

「大丈夫かい」と藤吉は側に駈け寄った。

 筑阿弥は大丈夫じゃと言うように手を上げたが、いつまでも咳き込んでいた。ようやく、発作が治まると、「大丈夫じゃ。ちょっと疲れが出ただけじゃ。横になってりゃ治るんじゃがの、昼間っから寝るのはどうも性に合わん」といつもの口調で言った。

「寝てなきゃ駄目だよ」

「さっきまで寝てたんじゃ」と言うと眺めていた茶碗を大事そうにボロ布で包んだ。

「こいつはの、わしの宝物じゃ。わしの唯一の財産じゃ」

 筑阿弥は寂しそうな目をして、丁寧に何枚もの布で茶碗を包んでいた。
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6.生駒屋敷

「あれが生駒殿のお屋敷じゃ」と与三郎が指を差した。

 枯れ野の中に大きな建物が見えて来た。土塁に囲まれた、その屋敷には物見櫓(ヤグラ)まであり、まるで、城のようだった。

「すげえなあ」と藤吉郎は思わず、叫んだ。

「確かに凄い。御主人様は蔵人(クロウド)殿といってな、灰と油を商う商人じゃ。馬や船を使って荷物の運送もやっている。かと言って、ただの商人でもない。武士として岩倉や犬山にも出入りしている不思議なお人じゃ」

 屋敷へと向かう通りの右側に広い馬場があり、侍とも人足(ニンソク)とも区別のつかない男たちが、大声で叫びながら馬を乗り回していた。

「あれは人足ですか」と藤吉郎は聞いた。

「そうじゃ。いや、浪人者もおるようじゃな。蔵人殿は徳のあるお人で、各地から集まって来る浪人たちの面倒もみておられるんじゃ。ほれ、あそこに見えるうちはな、浪人たちが勝手に寝泊まりしてもいいという長屋じゃ」

 与三郎は左手に見える家を指で示した。草むらの中にポツンと一軒の家が建っている。その家は藤吉郎の家よりも大きく、二人の浪人が縁側で話し込んでいるのが見えた。

「誰が泊まっても構わないんですか」

「ああ、構わん。お前があそこに泊まり込んでも誰も文句は言うまい」

「へえ‥‥‥」

 屋敷は水をたたえた幅広い堀と高い土塁に囲まれ、土塁の上の物見櫓から弓を持った侍が藤吉郎たちを見下ろしている。立派な門の前には太い棒を構えた仁王(ニオウ)のような大男が二人、怖い顔をして立っていた。

 与三郎は恐れる事なく門番に近づくと何事かを言った。門番は急に笑顔になり、二人を中に入れてくれた。
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7.侍奉公

 蜂須賀小六の屋敷はすぐに見つかった。

 最初に出会った農夫に聞いたらニコニコしながら丁寧に教えてくれた。農夫の指さす方を目指して行くと宮後(ミヤウシロ)村という所に着き、小六の屋敷はすぐにわかった。

 宮後村の領主、安井弥兵衛の屋敷と隣り合って並び、共に水を湛えた堀と土塁に囲まれた大きな武家屋敷だった。

 藤吉郎は門番に、生駒家からの使いでやって来たと嘘を言って屋敷内に入れてもらった。しかし、小六はまだ帰っていなかった。

 小六の屋敷は烏森の杉原家の屋敷よりもずっと広く、母屋(オモヤ)を中心に侍長屋らしい建物がいくつも並んでいて、藤吉郎はその一部屋で待たされた。小六はなかなか帰って来なかった。

 じっと待つ事に退屈し、屋敷の中をうろうろと見て回ると、女たちは台所で働いているが、男は門番しかいなかった。藤吉郎は女たちの仕事を手伝いながら小六の帰りを待った。

「あんた、どっから来たん」と雑用をやらされている娘が聞いて来た。

「生駒様のお屋敷から来たんだ」と藤吉郎は面倒臭そうに答えた。

「ふーん。何しに来たん」

「小六様に用があったから来たんだよ」

「御主人様に何の用なん」

「おめえには関係ねえ」

 おしまという娘は藤吉郎に付きまとって、何だかんだと聞いてきた。

「どうして、おらの仕事を手伝ってくれるん」

「暇だからだよ」

「おら、嬉しいわ」

 藤吉郎はおしまの顔をマジマジと見た。わりと可愛い顔をしていた。それに、着物がはち切れんばかりに胸が大きかった。幼い顔付きと立派な体付きはまったくの不釣り合いで、それが魅力とも言えた。

「おめえ、いくつなんだ」と藤吉郎は聞いた。

 おしまは藤吉郎と同じ十五歳だった。近所の百姓の娘で、父親が足軽として戦に行って片足を失い、母親は男を作って逃げてしまった。おしまは父親の面倒を見るために、ここで奉公しているとの事だった。
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8.三姉妹

 藤吉郎は河原に座り込み、ぼうっと川の流れを眺めていた。

「木下家の生き残りは、お前だけじゃ。きっと、木下家を再興するんじゃぞ」

 筑阿弥の声が聞こえたような気がした。でも、どうやったら木下家を再興する事ができるのか、藤吉郎にはわからなかった。

 小六の所は楽しかった。小六の屋敷に出入りしている野武士たちは癖のある男たちばかりだったが、義理堅く、人情に厚い男たちだった。そのまま野武士の仲間に入ってしまう事もできたが、ちゃんとした武士にならなければ、木下家を再興した事にはならない。

 岩倉の浅野又右衛門の所に行って、岩倉のお殿様に仕えようか。でも、又右衛門の養子になったら、浅野家を継ぐ事になって、木下を名乗る事はできなくなる。

 一体、どうしたらいいんだ‥‥‥

 藤吉郎は河原に寝そべった。空が眩しいくらいに青かった。顔に桜の花びらが落ちて来た。見上げるとすぐ側に桜が満開に咲いている。もう、こんな季節になったのか‥‥‥

 桜の花を見上げ、故郷の事を思い出しながら、いつの間にか眠ってしまった。

 キャーキャー騒ぐ女の声で目を覚まし、川の方を見ると三人の娘が水遊びをしていた。着物の裾をまくって川の中ではしゃいでいる。侍の娘たちか、贅沢な着物を着ていて、顔付きもどことなく上品だった。

 一瞬、夢でも見ているのだろうかと思う程、その娘たちは美しかった。二人の娘は藤吉郎と同じ位で、後の一人は十歳位の三姉妹のようだ。藤吉郎はぼうっとして姉妹に見とれていた。

「そっちの方に行くと危ないですよ」と女の声がした。

 声の方を向くと二人の女が三姉妹を見守っていた。さらに後ろには侍が二人、弓と槍を手にして立っている。侍の一人は見覚えがあった。生駒屋敷の浪人長屋で飯の支度をしていた兵法(ヒョウホウ)指南役の富樫惣兵衛だった。どうして、惣兵衛がこんな所にいるのだろうと不思議に思いながら、藤吉郎は惣兵衛の方に近づいて行った。
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9.旅立ち

 次の朝、藤吉郎は三姉妹に別れを告げた。「どうしても行っちゃうの」と吉乃(キツノ)は寂しそうな顔で言った。

 藤吉郎は吉乃の姿を瞼(マブタ)に焼き付けようと、じっと見つめながら、うなづいた。偉い侍になって帰って来るから、それまで待っていてくれと言いたかった。しかし、声に出す事はできなかった。

「いつでも帰って来なよ」と萩乃は言った。いつもの萩乃と違って、しんみりとしていた。

「ねえ、駿河って遠いの」と菊乃は藤吉郎の袖を引っ張った。

「うん、遠いよ」

「いつ、帰って来るの」

「すぐ、帰って来るわよ、ね」と萩乃が言って笑った。

「気をつけてね」と吉乃が言った。

 藤吉郎は吉乃にうなづいた。

「ねえ、猿、最後の水浴びに付き合ってよ」と萩乃が陽気に言った。「急ぐわけじゃないんでしょ。猿がいなくなったら、もう、水浴びなんてできなくなっちゃうもの。ね、いいでしょ」

 吉乃も菊乃も賛成した。

 いつもの河原で、はしゃぎながら着物を脱いでいる三姉妹を眺めていた藤吉郎の心はぐらついた。木下家なんかどうでもいい。このまま、三人の家来のままでいいと思い始めた。吉乃の側にいられるだけでもいいと思い始めた。

 すっかり小麦色に焼けている三人は楽しそうに川の中に入って行った。旅にでれば、もう二度と、この光景は見られない。ここにいれば、毎年、夏になる度に見る事ができる。でも、三人の家来のままだった。家来のままでは、吉乃を嫁に迎えられない。吉乃を嫁に迎えるためには、旅に出て偉くならなければならない。藤吉郎の心は揺れていた。

「最後なんだから一緒に入りなさいよ」と萩乃が両手を上げて叫んでいた。自慢の乳房が誇らしげに揺れていた。

「藤吉郎もおいで」と菊乃も手を振った。

 吉乃も笑いながら手招きしている。萩乃には負けるが、形のいい乳房が輝いていた。
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10.駿府

 暑い夏が終わったかと思うと、秋を通り越して、急に寒い冬がやって来た。人間だけでなく天候までもが狂っていた。

 藤吉郎が駿河の国の府中、駿府(スンプ、静岡市)に来て二ケ月が過ぎていた。

 京の都を知らない藤吉郎だったが、華やかな駿府の都は、まるで京都のようだと思った。城下の町も清須や岩倉とは比べものにならない位に規模が大きく、大通りにはいくつもの大きな蔵を持った商人の屋敷が誇らしげに並んでいる。尾張では滅多にお目にかかれないお公家さんや、偉そうなお坊さんが大勢の供を引き連れて大通りを歩いているのは珍しかった。戦に出掛ける鎧武者は向かう所敵なしと言える程、勇ましく、きらびやかな着物を着た女たちは、まるで天女のように美しい。この世の極楽ではないかと思う程、人々は皆、幸せそうで穏やかだった。

 駿府屋形と呼ばれている今川氏の城も大きく、幅広い堀と土塁に囲まれている。土塁が高いため、中がどうなっているのか見えないが、華麗な楼閣のような高い建物がいくつか見え、時にはその中にいる人影を見る事もある。まるで天上界の人を見るような気持ちで藤吉郎は楼閣を見上げた。

 駿府に二ケ月間いて、今川家が東海一の大名だという事はいやという程、藤吉郎にはわかっていた。清須の殿様や岩倉の殿様なんか、今川家と比べたら、ほんの小さな存在だった。今川家の重臣たちの方が、あの二人の殿様よりも、ずっと立派な城に住んでいて、もっと大勢の家来を持っていた。今川家こそ自分が仕えるべき所だと心に決めていたが、今川家の侍になるのは思っていた程、簡単な事ではなかった。

 藤吉郎は駿府屋形の北西にある浅間明神の門前町の外れにある木賃宿に泊まり、針を売りながら細々と暮らしていた。場末の木賃宿にいて藤吉郎は様々な人たちを見て来た。岩倉の木賃宿ほどひどくはなかったが、同じような人々が出入りしていた。仕事を捜しに田舎から出て来た者も多かった。しかし、仕事を見つけるのは容易な事ではなかった。毎日、朝から晩まで仕事捜しに出掛けるが見つからず、銭がなくなって追い出される者もいた。可哀想だとは思うが、その日暮らしの藤吉郎にはどうする事もできなかった。
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